Gaia〜青のプリマヴェーラ                 W.kimura ●act.1 「誰もいないの……? ヤエ、帰ってきたよ」  スクリーンには、暗い闇色の背景に、青地 を白のマーブル模様で彩った球体が浮かび上 がっていた。  よく見ると、青の他に土色のところと緑色 のところが白いマーブルの隙間にある。それ がまた濃い青や薄い青を引き立たせて、とて も美しかった。  この星をヒトが支配していた時代の最後の あたりでは使い古された陳腐な表現だったが、 「宇宙に浮かぶ青い宝石」というのが本当に ふさわしい姿。  ずっとその姿のままでいて欲しいと、多く の者が望んだけれど。 「イツキもロッカもナナも、途中で動かなく なっちゃったけど……ヤエだけは帰ってきた よ……ママたちとパパたち連れて、帰ってき たのに」  ずっとその姿のままでいるようにと、多く の者たちが努力したけれど。  残念ながらその願いが星とヒトのすみずみ にまで行き渡るには手遅れだったのか、崩壊 へ向かう自然を止めることはできなかった。  自然なくしてヒトもまた生きることはでき ず、星が病む中でヒトも病んでいき、ヒトと いう種は滅びを待つ絶望のカウントダウンの 時を迎えていった。  それも、もはや、はるかなる過去の物語。 「ねえ……誰もいないの……? 地上のパパ とママは誰も待っててくれなかったの……?」  しかしそんな中でも、わずかな可能性にか けた者たちがいた。  個の命よりも、おそらくはヒトという種を 残すために。巨大化した爬虫類のように、星 の歴史に消えてしまわないように。 「やっぱり、みんな、もういないの……?」  太陽の大きさと地球の自転速度から計算さ れた船外時間が、船のコクピット全面に広が るスクリーンの中の青い星にかぶるように表 示されていた。それは、絶望に足る長さ。  ヤエにはもう、パイロットシートから立ち 上がるだけの余力さえもなかった。  いかに亜光速の船とはいえども、船内時間 はゼロにはならない。  その愛らしい少女の姿は長い孤独を超えて も旅立った時のままであったけれど、彼女に とっての終焉の時が近づいていることは、ヤ エ自身にもわかっている。その寿命が、姉妹 たちとさして変わるはずはないのだから。  はるかなる新天地を求め旅立つヒトを送り 届けること。もしもそれが見つからぬなら、 星の回復力に賭けて故郷に再度進路を取るこ とが、彼女の……彼女たちの使命だった。  この星に誰も待っていてくれないことは、 とても高い確率で計算され、予想されていた ことでもあったけれど。  記録の中の映像にも遜色ない、生きる力を 回復したかのように見える青い地球が待って いてくれたことは、救いだったけれど。  でも…… 「お兄ちゃんたちも、お姉ちゃんたちも、も ういないの……?」  周波数を次々に変えて、プリマヴェーラが 流れる。  登録されたすべての言語を用いて、ヒトの 帰還を伝える。  だがそれに、理解できる返答はなかった。  ヤエ自身に繋がった船の受信機が拾うのは、 雑音ともつかないものばかり。 「ねえ、誰か返事をして……」 「もう、誰もいないのかい?」 「ああ! そうだ、もうみんな引き上げたよ」  新緑の緑と咲き誇る野薔薇が、春を飾る。  花は秋よりも鮮やかに萌え、命の季節を謡 いあげる。草原の緑がまだ淡さを残している うちに、野薔薇の苑は一足先に緑を濃くして、 遠くからでも目を引いた。  二本足で草原を駆ける獣ルューが二匹、少 年たちを背に乗せて走っていく。  ネズミから進化して地球に生まれた第二の 知的生命体ロムの少年たちは、長い尻尾をム チのように使ってルューの足を速めさせてい る。  彼らは、先を争うようにローズガーデン遺 跡を目指していた。  少年たち……開拓民の子ディーと草原の遊 牧民の子リットに、どうしてもローズガーデ ンに急がなくてはならない理由はない。  ただ、半年ぶりに顔を合わせたので、すべ てが新鮮な遊びのように思えただけだ。なん とはなく、競争のようになってしまっただけ で。  勝負はリットが明らかに優勢だった。  ディーがムキになって尻尾をしならせても、 悠々と少しだけ先を行くリットを追い抜けな い。  そうしているうちに、こんもりと小山のよ うに草原の中に茂った野薔薇の群生地は、も う目の前だった。 「ディー! 止まるよ」  少し手前でルューを下りて、そこからは歩 いて行こうとリットが提案した。  ルューを繋いでおくのに、ローズガーデン には適当な木が少ないからだ。どれもトゲだ らけで、ルューが傷つくからと。  急にリットが減速したので、ディーは親友 を追い抜いてから、しばらくして止まった。  そこからルューの首を巡らせて戻ってくる。  追い抜きたいと躍起になってはいたけれど、 多分これでは勝ったことにはならないので、 少しだけ顔がむくれていた。  競争を一方的に中断したリットのほうは、 それを見て声なく笑っている。 「なんだよ」 「……いや、ここにこいつらを繋いでいこう。 これだけ大きければ、夕方近くになるまでは 日陰もあるだろうし」  そういって、リットは低木の多い草原では 珍しい、背の高い木にルューの綱を結ぶ。下 草もあるし、しばらくはそれを食んでいてく れるだろうと。  本格的にディーの機嫌を損ねる前に、リッ トは少しだけ顔を引き締め、ディーのルュー の引き綱も同じ枝に繋いだ。 「この半年で、ずいぶん有名になったよね、 ローズガーデン。南の町でも噂を聞いたよ」  そして何気ないそぶりで話を変える。 「そうなんだ。近くにいると、それはわかん ねーなぁ」  ディーはあっさり話にひきずられて、表情 を和らげた。  このローズガーデン遺跡は、六十五万年前 に滅び去ったヒトの遺跡である。  半年前までは本当にヒトの遺跡であるかど うかを疑問視する声すらあったが、それはこ こ半年でなくなった。なぜなら半年前に、こ の土地の地下深くから六十五万年の時を越え て冷凍睡眠で眠っていた者たちが発見された からだ。  発見された者たちの姿は、尻尾のあるなし や耳の形などからロムと区別こそつくものの、 総合すれば別のほ乳類から進化を遂げた種と 断じることが難しいほどロムと酷似しており、 世界中を驚かせた。 「なんだか、なつかしいな。まだあれは半年 前のことなのにね」 「俺は、まだつい昨日みたいな気がするぜ。 近くにいるのと、離れてたのの違いなのかな」  リットが本当になつかしそうに目を細める のを、ディーは不思議そうに目を見開いて見 た。  ここで話をしている少年たちは、まさに世 界を驚愕させた発見の一瞬に立ち合ったのだ。  それが見つかるまでは、このローズガーデ ン遺跡にも近くの開拓民の町アルグにも、頻 繁に通う者は多くはなかった。ありふれた辺 境の町と、ありふれた辺境の遺跡だった。  この半年、訪問者はたくさんいた。そう、 ディーはいったが。 「でもなあ、たくさんすぎて何がなんだか」  その多くは色々な都市の研究者たちだ。  色々な分野の研究者たちがやってきた。目 覚めた前文明の落とし子たちの、世話やケア や研究のために。  しかしそのラッシュも、発見された者たち をすべて各都市へつれていくことで、ひとま ずは終わった。 「でもまあ、みんな引き上げちゃったからさ、 もう遺跡には誰もいないはずだぜ。黙って入 り込んでるヤツが、いないとは限らないけど」  俺たちみたいに、といってディーはぺろっ と舌を出す。  話はルューに乗っているときにしていて、 途絶えたものに舞い戻ったようだ。 「都市の大学教授ってヤツが、うかつに入っ ちゃダメだとかいっていったけど、そんなの トレジャーハンターが聞くわけないし」  ルューを木の下に残して、少年たちは歩き 始めた。正面に見えている野薔薇の大きな茂 み、ローズガーデンを目指して。 「大学教授ってシーサ博士じゃなくて?」 「違うよ」  リットが知り合いの研究者の名前を出すと、 ディーはふるふると首を振った。 「シーサ博士も来てたけど」  シーサ博士というのは、半年前の発見の瞬 間に彼らと共にいた研究者だ。  シーサは公式な第一発見者と見なされてい て、ずいぶん敬意は払われていたようだった が……生来ののんびりした性格のためか主導 権を握っているとはいいがたかったと、ディ ーは声をひそめてリットに囁いた。大声でし ゃべったところで、誰もシーサにいいつける 者はいないだろうに。  まあ、陰口の気分なのだろうか。 「ふうん……危ないから、入るのを止めてる とか、そういうんじゃないの? 入っちゃっ て大丈夫なのかな」 「そいつは平気! シーサ博士が、危ない仕 掛けは何も見つからなかったって教えてくれ たからさ」  ディーが胸をはってそういうのを、リット は笑って聞いた。きっとシーサ博士のしっか り者の娘ハンナが聞いたら、また目を吊り上 げて怒ったのだろうと思って。  他の者に近づかないよういっていったとい うことは、まだ中の調査は完全には終わって ないのだろうとリットは思う。  だから、多分シーサの発言のほうがフライ ングなのだ。危ない仕掛けは、まだ見つかっ てないだけかもしれない。本当に安全かどう かは、疑わしいかもしれない。  だが、ディーと共にローズガーデンへ行く ことをいやだとは、リットは思わなかった。  それはずっと前からの、ローズガーデンが 有名になる前からの、彼らの約束だったから。 「調査の連中がいっぱい来てさ、いいことも あったぜ。ほら、道ができてるんだ。切った んじゃなくて、あっちに植え替えたんだけど」  野薔薇の群生の中に一筋、半年前まではな かった道ができている。  そしてディーが指さしたほうには、半年前 にはなかったところに野薔薇がゆったり花開 いていた。  新しくできた道を通って、彼らは悠々と、 かつては野薔薇に埋もれていた中への入口に 到達した。  その蓋を開けて中に入ると、暗い中にはし ごが下っている。  腰のランプに火を入れて、中に降りていく と、どこからか風を感じた。どこから吹いて いるのかわからないが、空気の流れがあるの だ。  だが下まで降りきっても、中は暗いまま。 「でも、こっから先には一緒には進めないん だよなあ」  この奥に進むには、仕掛けがあるのだ。  このはしごを降りきったホールから繋がっ ている通路に誰かが進むと、通路の入口が閉 じられ、その後、奥に繋がるもう一つの入口 がホールの反対側で開くのである。  だから誰かがおとりの通路に進まないと、 本当の入口には入れない。  少年たちだけでは、本当の意味で一緒には、 中には入れないのだった。 「あのさ、前来たときに行ったとこに入るの は無理だけど、この奥に入ってみないか?」  ディーの言葉に、リットは丸い目を更に丸 くした。それから、心配そうにいう。 「出られなくなるかもよ、ディー」  この仕掛けを誰より最初に見つけたのはリ ットだったので、それがどういう意味かは、 リットはわかっているつもりだった。 「へへへ、そう思うだろ」  けれど、ディーは鼻を掻いて笑う。 「実はさ、こっちの奥からも外に出られるん だってさ。最初は野薔薇に埋まって開かなか ったらしいけど。それに、そっちの出口が開 かなくっても、待ってればこの通路の壁、ほ うっておいてもまた開くんだってさ」  そういって、今は開いている通路を指す。 『本当の入口』が開閉すると、おとりの通路 の入口が再度開く仕掛けだ。だがそうでなく ても、数時間すれば再び開くことが調査隊に よって後からわかったのだとディーはいう。 もちろんディーの情報ソースはシーサである。 「行こうぜ。答がわかってる冒険なんて、つ まんないかもしんないけど」  まだ見つかってないものがあるかもしれな いだろと、無邪気にディーは笑った。  ディーに誘われるままにリットも通路の奥 へ入った。  背中のすぐ後ろで、せりあがる壁の息吹の ような風を感じる。  彼らが振り返ると、もう道は閉ざされる瞬 間だった。  改めて見ると、その速さを恐ろしくも思う。 「挟まれたりしないのかな」 「なんか、ものが上に乗ってるときには動か ないんだってさ」  へえ、とリットはディーの説明を聞いた。  ディーはハンナの目を盗んでシーサからど のぐらいの話を聞き出したのだろうかと、リ ットにはそちらのほうが気になりだしている。 「出口って、この奥?」 「うん、まっすぐ進むんだって……」  ……不意に、そのとき、音がした。  音は小さかった。そして雑音が多かった。 「なに? これ」  ディーが知っているものと思って、すぐさ まリットは聞いた。  この通路の奥には入ったことがないので、 前にも聞こえたものなのかどうか、リットに は知りえない。  その条件はディーも同じだが、シーサから さんざ情報は聞き出したのだろうと思ってい たので。だが。 「……知らね」  ディーもびっくりした顔で、耳をひくひく 動かしている。どこが音源なのか、わからな いのだ。  それはリットも同じことだった。 「何の音かな? 雑音が混ざってるけど、音 楽みたいだね」 「聞いたことないな。音も変わってるし」  少しずつ、音が大きくなってきたように少 年たちは思った。  いまだ、音源はわからない。  音源を探して首を巡らしていると、ディー とリットは今閉まったばかりの隔壁が、静か に下がっていくのを見つけた。  聞いた話では、再び道が繋がるまでには数 時間はかかるはずだったが。  そして。 「どういうことだ……? こっちが開いたの に、開いてるぜ。奥の入口」  けして同時には開かないはずの二つの壁が、 同時に開いていた。  いや、何より、誰かが触れなければ、奥へ の入口は開かないはずではなかったか。  誰かがディーとリットに気取られぬように 後をつけて来なかったなら、誰も開ける者は いなかったはずだ。  当然だが彼らは、誰かが、という想像をす る。それでも、開きっぱなしになっている入 口の疑問は残る。  音楽は、また少し大きくなったような気が した。少しずつ近づいているかのように。  不思議な感覚で音を聞いていると、声らし きものが時折混ざるようにも思えてきた。し かし、何をいっているのかはわからない。 「何を……いっているのかな。混ざってるの はヒトの言葉だよね」  それが肉声ではないことと、そしておそら くは数十種とあると聞かされたヒトの言語の うちの一つではないかということは、リット には想像できた。  ここで聞こえる理解できない言語なら、そ う考えるのが自然だろう。 「泣いてる」 「泣いてるね」  虚空を睨むように見つめるディーの言葉に、 リットは応じた。  意味はわからなくとも、それが悲しみの感 情の発露を伴っていることが……確かに聞こ える。 「どこで!?」  ディーはあたりを見回した。  視界の範囲には、どこにも誰もいない。  かつてこの遺跡の奥で遭遇した記録音声と 同じかとも思ったが、それが今このように彼 らの耳にさらされる理由はわからなかった。  この場所に、調査の手が入ったことのなか った半年前とは違う。  だから……  ここのどこかで、泣いている。そう思って しまったとしても、仕方がないだろうか。 「ディー!」  開け放された奥への入口へと向かって走り 出したディーを、リットも追いかけた。 「ディー! 戻れなくなるかも……」  聞くわけがないと知りつつ、リットは警告 もする。  だが、ためらいなくディーは遺跡最奥部へ の入口に飛び込んでいった。  幸いにも、リットがその後を追って中に入 った後も、背後で入口の閉まる音はしなかっ た。  ディーがどんどん先に行ってしまうので、 リットにも振り返って確かめる暇はなかった けれど。  永い時を越えるための寝床は、今はぬけが らだった。  シーサ博士は、生まれたての、あるいは生 まれる前の命が眠る場所を『生命のゆりかご』 と呼ぶのに対し、ここを『生命のしとね』と 呼んだ。  生まれた後の命が時を越えるために眠る場 所だったからだと、後からディーとリットは 説明を聞いた。シーサは、ユーモアのつもり だったらしい。  眠っていた者たちは目覚め、起き出してい ったので、もうそこには誰もいない……はず だった。 『ねえ、誰か返事をして……』  言葉はわからない。  わかるのは、ただ泣いていることだけだ。  何もなかったはずの場所に、ゆったりした 椅子が浮いていた。浮いているように見えた。  その上に、少女が座っている。両手で顔を 覆って、泣いていた。  かつて、ここに初めてリットが入り込んだ とき、その場所には同じように少女の映像が あった。そのときは少女は立って、にこやか ですらあった。 「映像……っていうんだろう。これは」  映像という言葉にも、実物にも、草原に生 きる少年リットは馴染みは深くない。  だが、かつて記録映像だと説明を受けた少 女と今同じ場所にいる少女の姿は、よく似て いる気がした。その手が顔を覆ってはいても。 「映像……? でも、泣いて」  それでも、引き寄せられるように、ディー は少女は歩み寄った。  その手が届くほどに近づいたとき、少女は 驚いたように顔を上げた。 『誰……?』  ディーは、今確かに少女が自分を見ている こと感じた。 『待っててくれたのね……!? ヤエたち帰っ てきたよ。今船を降ろすから!』  すがるように伸ばされた手は、ディーの腕 を通り抜ける。そして、バランスを崩したか のように、ヤエは椅子から落ちそうになった。  だが、ディーにはそれを支えてやることは できない。 『必ず……無事に船を降ろすから。みんなは ちゃんと降ろすから。必ず間に合わせるから』  自分を抱きしめるようにしてつぶやいた後、 ヤエは再び顔をあげた。  その言葉の意味は、やはりディーにはわか らない。 『ヤエが動かなくなる前に……! でも、降 ろした後、そこまで移動はできないかもしれ ない。迎えに来て……お願い……』  ただ、今まで泣いていた少女が、ディーを 認識して思いつめた表情に変わり、間違いな くディーに何かを訴えかけていることはわか る。何かを懇願している。 『急がなくちゃ……もう、時間ない……』  それは、ヤエの機能が停止するまでに。  音楽のノイズがひときわ大きくなった。  映像が乱れる。 『すぐに降りるから……予測座標を送るから、 来て。お願い』 「なにいってんだ? 頼むよ、わかるように いってくれよ!」  胡桃の弾けるような音がして、空中に白い スクリーンが開いた。  それは、やはりかつてこの場所でディーと リットが見た映像の一つ。だが、映し出され ているものは違うようだった。そこには、数 字がものすごい勢いで流れていく。 『迎えに来て……』  一方で、ヤエの映像は更に乱れた。 「……だから、なにいってんだよ」  かつてリットが感じたのと同じような切な さに、ディーはいらだちを感じる。どうした らいいのかわからない、辛さ。 「この子は、ここにはいないんだ。今どこか にいるとしても、どこか、別の場所だよ」 「どこに!?」  リットが背後から、ディーの肩を叩いた。  振り返りざま、噛みつくようにディーは問 う。 「……僕たちにはわからないよ」 「誰ならわかる? どうしたら」  そのとき、ある姿がディーの脳裏にひらめ いた。彼でもわかるかどうかわからないが、 ただ、多分ディーが頼れるのは彼だけだ。  映像が完全に消え失せるまで、少年たちは そこにいた。  そして少年たちが、そこではそれ以上どう にもならないことを悟って外に出るのを待っ ていたかのように、野薔薇の苑は再び沈黙す る。  音楽も、もう聞こえない。  外に出ると夕闇が近づいていた。  ……それを切り裂くように、赤く大きな流 れ星が、地平線の向こうに落ちていった。 ●act.2 「ハンナ!」  名前を呼ばれたので、ハンナは廊下で足を 止めた。振り返ると、ハンナの父親がとてと て走ってくるところだった。  そのスピードがなんだか遅くて、ハンナは 思わずため息をついた。  父親も、顔は若く見えるが肉体のほうは歳 相応ということか。研究で机にかじりついて いるタイプの学者とは違って、考古学者の父 親は比較的フィールドワークにも出ていくの だから、運動機能の衰えは致命的でもあるだ ろうに……と、ハンナは少し心配になる。 「ハンナ、調査隊に同行するんですって?」  そんなハンナの内心には気づかぬように、 アル・シーサは高い背を屈めて娘を覗き込む。 「耳が早いのねぇ」  憮然とした顔で、ハンナは応じた。  口うるさい教授などが見たら親を敬う態度 ではないと叱るかもしれなかったが、親子と いうのは、こんなものかもしれない。なにし ろハンナは、まだ思春期と分類される年齢な のだから。  調査隊というのは、南方の海に落ちた巨大 な宇宙からの落下物の引き上げに関するもの で、名乗りをあげた各都市から代表を出して の大がかりなものだ。  コネだろうが実力だろうが、それに同行で きるというのは幸運だった。たとえそこに未 知の危険があったとしても、だ。  シーサの顔も、娘を心配する親のものでは なかった。出来のいい娘を誇るような、喜び の表情。  そして更に、何か別の期待を含んでいるよ うに、ハンナには思えた。 「……でも、お父さんも連れていってもらえ るように頼んだりはしないからね」  娘も手慣れたもので、先回りして牽制する。 それはズバリだったようで。  シーサ博士の尻尾の先は、力なく垂れた。 「ハンナの専攻は、古生物でしょう〜。古生 物の研究室からは学生まで連れていくのに、 どうしてうちの研究室は私さえ行っちゃいけ ないんですか〜?」 「そ、それは……」  シーサはさめざめと泣きながら、駄々をこ ねている。  これが演技ではない天然なので、ハンナに は実の親ながらたまらないのだ。……実の親 だからたまらない、ともいえるが。  ハンナは一瞬怯んで口ごもったが、すぐさ まシーサの情けなさを嘆く思いのほうが強く なった。 「お父さんのとこは、通信文の解読と翻訳の 仕事がまだ終わってないでしょ! そっちが 終わらなきゃ、調査団の選考にだって入らな いわよっ」  とハンナが歯を剥くと、シーサも反論する。 「あんなの、ノイズさえ取り除ければ、ヒト のみなさんに協力していただいてすぐ終わる んですよ〜。進まないのはノイズがひどいか らで、ノイズを取り除く作業は専門技術者に 依頼してますし、私の知識が絶対必要ってわ けじゃ……」 「お父さん、責任者でしょ〜っ!」  シーサは耳を伏せて、縮こまっている。  その様子が、なおハンナの心を荒らした。 「廊下でケンカは、みっともないわよ」  その勢いのままハンナが言葉を続けようと したところに、あきれた声が割って入った。 「お母さん」 「ユドリさん」  ハンナもシーサも反射的に振り返って、白 い研究衣の美女を確認する。ハンナと同じ色 の豊かな巻毛の美女は、ユドリ・サラエ。 「学内では、お母さんは禁止」 「あ……はい、サラエ博士」  ちなみにハンナの母ではあるが、現在はシ ーサの妻ではない。  やっとハンナは、ここがどこだったかを思 い出した。  しまった、という表情であたりを見回す。  遠まきに親子ゲンカを見物する野次馬学生 たちが、増え始めていたようだ。ハンナと目 を合わせると、そそくさと立ち去って行った。  反対側の野次馬はハンナが見る前に、サラ エが散るように手で示して、それで立ち去っ たようだった。 「何をするにしろ、場所は選びなさい」 「……はい」  反省のポーズ。  ハンナは場所柄をわきまえず激昂したこと は、本当に反省した。元をただせば父親が悪 いという考えは、譲れないが。 「いやあ、でも、ハンナはユドリさんの若い ころにそっくりですから。短気なところとか」 「あたしが短気なんじゃなくて、あなたがの んき過ぎるのよっ」  これも遺伝というものでしょうか、とのん びり続けていたシーサの言葉を掻き消すよう に、サラエが歯を剥く。  ハンナも、少なくとも父のいう母からの遺 伝は認めざるを得ないような気はする。この 母とこの父を足して二で割ったから、娘はま ともに近づいた……といえれば、いいのだが。 「とにかく……」  ハンナの視線に気づいたか、サラエは咳払 い一つして、落ち着きを取り戻した。 「今、ハンナさんがいっていた通り、シーサ 博士の研究室は解読が進まない限り、調査団 には入れないわよ。調査団は表向き連邦の各 州合同だけど、受信内容の解読は州どころか 都市間競争だもの」  すべては三週間前、世界中で突然ありとあ らゆる通信機器が狂った日から始まっている。  その日通信を受信できる機器はいずれも、 同じ内容と思われる通信を受信したらしい… …「思われる」「らしい」といわなくてはな らないのは、それは周波数が合わなかったの か、原理から合わなかったのか、あるいは受 信側の機器がまだ原始的すぎたのか、明瞭に その通信の内容を受信できたものがほとんど なかったからだ。受信機の多くは、ただの雑 音と感じられるものを発しただけだった。  その事件に携わらぬ多くの市民は、それを 直接耳にした者でさえ、いまだそれをただの 雑音と考えているだろう。  むろん、都市部でなければ、そんな事件が あったことすら知らぬままでいる者が圧倒的 でもあろう。  だが、それは確かに時差こそあれど、世界 中に降り注いだのだ。ロムの文化にはいまだ 手の届かぬ、衛生軌道上から。  そして唐突に始まったそれは、ほぼ唐突に 終わっている。  ただ直後に、まだ昼間の空でさえ天を切り 裂くような光が彼方に落ちるところを誰もが 見た。これは、そのとき空を見上げた誰もが。  大隕石が落ちたのだと囁かれたが、心配さ れた天変地異は訪れなかった。 「いくらこの都市で保護しているヒトが助勢 してくれるからっていっても、同じ条件の都 市は他にいくつもあるのよ。シーサ博士が第 一発見者だったおかげで、そりゃあ他都市よ りもフォーパ市では、たくさんヒトを保護し ているけど……他州の遺跡からの発見だった のは痛かったわね」 「ユドリさん、彼らは物ではないのですから」  珍しくシーサが咎めるような声音だったの で、ハンナは少し驚いた。  だがサラエのほうはあっさり、 「失礼」  と応じて終わり、先を続ける。 「なんにしろ、我が市だけで引き取ったわけ じゃないんですもの。解読チームから、頭数 を減らすような真似はできないわ」  結論に至ると、シーサはため息をついた。 「解読は競争じゃないと思うんですけど」  少し悲しげに、シーサは元妻に訴えかける。 「そんなこといってるから出世できないのよ、 あなた」  容赦なくそう切り返されて、シーサはしょ ぼんとしおれた。  世界中で受信したそれのすべてが雑音だと いうことなら、シーサがその解析に縛りつけ られることはなかっただろう。だが、そうで はなかったのだ。  その発信源の技術に近づいていたもの…… ロムにとっての最新鋭の受信機は、わずかな 時間その通信を元の状態に近い姿でもたらし た。たとえば、この大学の一部の機器などは。  それは、誰も知らない音楽だった。ロムに とっては。  記憶障害を持つ保護されたヒトの多くも、 その音楽を記憶に残していなかった。  だが、それはゼロでもなかったのだ。その 曲のタイトルすら思い出せなくとも、それを 「目覚めの曲だ」  と、いう者が数名いた。聞いたことがある という者は、もう少し多かった。  音楽ではない部分を受信できた都市もある。  現在はこれが、調査団を組織する拠所とな ってもいる。その受信できた中に、それがヒ トの言語形態の一つであるとして考えると、 ある南海の一点を示すと判明した座標があっ たからだ。  そしてやっと……その世界中が聞こえない メッセージを受けとめた日に「海上に落ちた とされていた巨大隕石」と、そのメッセージ がはっきりと繋がる。その座標が示していた 場所は、その隕石が落ちたと思われた場所に、 限りなく近かったからだ。 「全部終われば、連れていってくれるんでし ょうか……」 「あのね、あたしが連れていかないって決め たわけじゃないんだから、そんな恨みがまし い目で見ないでちょうだい」  嫌そうに視線を逸らしながら、今度はサラ エがため息をつく。  もしもこの一連の事件が、シーサが『眠れ るヒト』を見つける前のことだったら、合同 調査団などと大がかりなことにはならなかっ たかもしれない……と、サラエは考えていた。  ヒトがいて、彼らが受けとめた電波を同族 の発したものと認めたから、こんな騒ぎに発 展しているのである。今度こそどこの州も都 市も抜け駆けはされまいと、妙に牽制しあっ た結果が、この合同調査団という組織になっ たのだ。  本当ならば、もっと早くに調査に行けたは ずでもあり…… 「皮肉なことね。彼らが先に見つかっていな かったら、あの電波障害の正体がわかるまで には、もう少しかかったかもしれないし……」  ただの隕石落下の調査になら、誰かはすぐ に行けたかもしれない。  それが通信をできるような生命体が乗った 乗物だったなら、一刻を争う可能性もあるの に……今は、それが先にわかってしまったこ とが、足を引っ張っている。 「とにかく、終わったからって行けるとは限 らないけど。でも解読が終わらないうちは、 あなたがここから出してもらえるとはとても 思えないのも、確かね」  見るからに消沈するシーサが哀れを誘う。  だが、サラエのいうことは間違っていない だろうとハンナも思った。 「お父さん、そんなに行きたいの?」  と、改めて今更のように浮かんだ疑問を、 ハンナは言葉にした。  シーサは、以前解き明かした古文書から存 在を知った『生命のゆりかご』を探し出すこ とをライフワークに決めている。  かつて発表したばかりの時点では、ほとん どの同業者に相手にされなかったものだった が……時を越えて機能を続ける冷凍睡眠装置 を発見したときから、多くの対応は変わった。  シーサの説は夢物語ではなく、現実になる かもしれないと。  この星から失われた多くの植物の原種の種 は、本当に時を越えて遺っているかもしれな いと。  それは行き詰まりかけたこの世界に、新し い活路を拓く手段をもたらすかもしれないと。  だから、もうシーサはその発掘を諦める必 要はない。力を貸そうという者も、先んじて 発掘しようという者までもいる。  だが……それと、宇宙から落ちてきたもの をサルベージするための調査団に参加するこ とは、直接は関わりないようにハンナには思 えた。つまり、それには、シーサがムキにな る理由はないと思えるのだ。 「どうして? そりゃあ、もしかしたら落ち てきた宇宙船には、ヒトが乗っていたのかも しれないけど……」 「ハンナ」  サラエが娘の名を呼んだのは、その発言を 咎めるためだった。  その内容には、まだ学内でも関わりのない 者には、秘密にしておかなくてはならないも のが含まれていたからだ。  サラエの声は平静だったが、ハンナは、は っと口元を押さえた。 「ごめんなさい」  そういって、ハンナはちらっと周囲に視線 を走らせる。  野次馬は散らした後だったので、声の届き そうな範囲には気になる影はなかった。 「でも本当に、お父さん……変よ」  うう、とシーサはうなった。 「それは……その」  シーサは口ごもって、サラエのほうをちら ちら見る。  ここではいいにくいことが理由であるらし いと、そこまではハンナにも理解できた。  間違いなく口の軽いほうであるシーサがこ こまでいいよどむのだから、いえば確実にサ ラエが雷を落とすような内容なのだ。 「実はね」  意を決したように、シーサは表情を凛々し く引き締めた。  息を飲んで耳を傾けると同時に、いつもそ ういう顔をしていれば女性にはもてるんじゃ ないかと、ハンナはふと場違いなことを考え る。……娘がそんなことを考えるほど、それ は滅多にない表情でもある。 「実は、ディー君と連絡がつかないんです」 「……は?」  ハンナは真剣に聞いていた分、脱力感も激 しかった。どんな告白があるかと思ったら。  サラエに至っては、発言の意味がまったく 理解できなかったらしく、怪訝そうに顔をし かめている。 「ディーって、アルグの町の子のことよね? 何をいい出すかと思ったら……っていうか、 何、お父さん、まだあの子と連絡取ってたの」  田舎育ちの少年の、どこがそんなに気に入 ったのかと、ハンナはあきれかえった。  居住地たるこのフォーパ市に帰ってきてか ら、よくもそんな暇があったとも思う。『眠 れるヒト』の第一発見者の肩書は、たいそう シーサを多忙にしたはずだったのに、と。そ の多忙の合間を縫って、連絡を取り合ってい たならよほどのことだ。 「いや、別に、ずっと連絡を取り合ってたわ けじゃ」  いやいやとシーサは手を振るが、娘と元妻 はどうにもそうは思わなかったようだ。 「……発掘先で仲良くなった可愛子ちゃんと 連絡が取れなくなったから、傷心旅行ってい うわけ? あなた、それをいったら間違いな く調査団のメンバーからは永久に外されるか ら、黙ってなさいよ」  ハンナは、サラエの額に青筋が浮かんでい るような気がした。  サラエはディーの性別を勘違いしていると 思って、説明する。 「ディーは男の子よ。多分、私より年下だわ」  サラエは驚いたように目をまばたかせた。 「なお悪いわ」 「お母さんったら! じゃなくて……サラエ 博士、そういうことではないですってば。で も、どういうことなの、お父さん? ディー と連絡が取れなくなったからって、調査団に 参加したい理由にはならないと思うわ」 「いや、だからね、こっちに戻ってきてから ずっと連絡を取り合ってたわけじゃないんで すよ。ちょっと理由があって連絡を取りたい な〜と思ったんで、手紙を出してみたんです が、受取者不在で戻って来ちゃったんです」  そこまではわかった、とハンナはうなずい た。  連絡を取ろうとしたのには理由があって、 親しく連絡を取り合っていたわけではないと いうことは。  だが、それは『調査団に参加したい』とい う動機とは、まだ結びつかない。 「それで?」 「それで……私も調査団に参加したいなあっ て思ったんです……けど……」  だんだん、シーサの声は小さくなっていっ た。発言に筋が通っていないことは、自覚が あるようだ。  やっぱりまったくそれは、『調査団に参加 したい』という動機とは結びつかない。 「……あなたのいっていることはまったく筋 が通らないわ、シーサ博士」  案の定、冷え冷えした声音でサラエはそう いった。  だが、意外にも、雷は落ちなかった。 「こんな廊下で話すことじゃないのかもしれ ないわね。あなた口下手なんだから、変な洒 落なんて混ぜないで、よく伝えたいことを整 理して調査団の選考委員会に説明するのね」  同じぐらいの身長の母親の横顔を、ハンナ は見つめる。  ハンナにはまったく父親の話の意図が掴め なかったが、母親は掴めないなりに事情があ ると考えたようだ。  それじゃあ、とサラエは立ち去りかけて、 何か思い出したように足を止めた。  それから、ハンナのほうに顔を向ける。 「そうだわ、ハンナさん。調査団の打ち合わ せがあるので、ホールに集まってほしいって いわれてたんだったわ。あたしは一度研究室 に戻らないといけないけど……」  懐中時計をポケットから出して、サラエは 時間を確認した。  もう、定刻に間もない。 「あ、はい! 博士」  そう返事をして、ハンナもサラエの後につ いていった。 「あの、サラエ博士」  レポートを挟んだクリップボードを胸に抱 いて、ハンナは先に行くサラエを追いかける。  廊下なので研究の内容に深く踏み入る話は できなかったが、ハンナはサラエに聞いてお きたいことがあった。 「私が、調査団に参加する代表に選ばれた理 由についてなんですけど」 「あたしが推薦したわけじゃないわ、それだ けは確かよ」  ひいきではないか、コネではないか、ハン ナがまったく気にならなかったかといえば、 それは嘘だ。  むろん、そういう風評が立つのは仕方ない だろうとも思っているが、ハンナにとって気 にするべきは事実がどうだったのかだ。  サラエは元夫だけではなく、実の娘にも容 赦ないほど正直なので、サラエがそういうな ら、それは事実だろう。  一学徒として選ばれたなら真実誇るべきこ と……と、ハンナはパッと表情を明るくする。  しかし、サラエはやはり容赦なく続けた。 「一応あなたも『眠れるヒト』の第一発見者 ってことになっているし、シーサ博士とあち らの研究室の学生たちは全員選考ではじかれ たらしいから、そのせいかもしれないわね。 あの発見は、どこの都市からも今は注目され てるし。それをフォーパ市代表に誰も入れな いのは、さすがにまずいと思ったんじゃない かしら」  サラエの続けた言葉に、ハンナはがっくり 肩を落とした。  そんなところよね、と小さくつぶやく。  だが、サラエの話はまだ続く。 「逆にあたしが参加することになったのは、 あなたのおかげかもしれないわね。あなたの 担当教授として、ね。そうでなければ、いく ら落下物の事情を考えたとしても……無名の 古生物学者を連れていくぐらいなら、もっと 連れていきたい技術者も、ついていきたい学 者も多いはずだもの」  参加者を許される数には限りがあるのだか ら、と。  そのあたりでハンナも、いちいち浮いたり 沈んだりすることに飽きた。  深呼吸を一つして、話を変えることにする。  変えるといっても、無関係ではない。なぜ サラエのような古生物学者が、そしてその学 生が調査団に参加したいと思うのか、その理 由に関わっている。  今まで話していたのは、選ぶ側が選んだ理 由だ。サラエやハンナが調査団への参加を希 望した理由は、別にある。  でも、こちらは……先の話題よりも危険だ という自覚はあった。 「あの、お父さんに……シーサ博士に、ロー ズガーデンで発見されたヒトの、サラエ博士 の仮説を、お話ししても、いいですか?」  迷う気持ちが、言葉をぶつ切りにする。 「まだ駄目」  だが、返事は簡単で明瞭だった。  サラエはしばらくはそのまま沈黙する。  ほどなく自分の研究室の前までたどり着く と、扉を開け、ハンナと共に中に入って扉を 閉めた。  部屋の中には整理整頓された事務机が並ん でいる。何名かの学生が、机に向かっていた。 「……まだ実証はできないもの。調査団が宇 宙船を引き上げて、『本物のヒト』を発見で きれば検証に入れるけど」  そして唐突に、話を続ける。  これは、まだサラエの研究室の中でしかで きない話だった。今はまだかつてのシーサと 同じような目に遭いかねない仮説だと、サラ エ自身さえも評している。  その仮説は、『本物のヒト』という言葉に すべてが象徴されるだろう……それはうかつ には口にできない、非常に扱いの難しいもの であることは確かだった。 「やっぱり、変ですかねぇ」  シーサは独り言をつぶやきながら、こちら も自分の研究室の扉を開けた。  雑多な発掘品やらレプリカやらが無造作に 置かれ、ある机では山をなし、雑然とした中 に学生たちがわらわらといる。 「あ、シーサ博士、どこ行ってたんですか。 ヨシノちゃん待ってますよ」  その中の一名が、手を挙げてシーサを呼ん だ。掲げた手には、黒いカセットがある。 「ヨシノちゃん、こっちですよ」  もう一方で、まだ基礎教育生のような歳の 少女の相手をしていた学生も、シーサを呼ぶ。 「はいはい、カリネさん、いつもすみません」  カリネというのは少女の相手をしていた学 生のことだ。そちらのほうが近かったので、 シーサはそちらの前に先に立った。 「ご協力、ありがとうございます」  シーサが丁寧に、そして心から礼を述べる と、ヨシノは花のように微笑んだ。  ロムの言葉も習ってはいるというけれど、 まだしゃべることまではできない。ヨシノは ローズガーデンで眠っていた少女だ。 「今日もテープ、聞いてくださいね」  だが、ロムの持つ精神感応能力のおかげで、 意思の疎通に困り果てることはない。  シーサがゆっくりとそういうと、ヨシノは こくりとうなずいた。  ヨシノはもしかしたら眠っていた中でも特 別な立場かと、思われてもいる。最初にシー サやリットが見た立体映像の少女が、ヨシノ の姿だったからだ。  しかし、ヨシノも眠りから覚めた多くと同 じく記憶障害で、ほとんど眠る前のことは憶 えてはいないのだが。 「博士、こいつ再生しちゃっていいですか」 「あーはいはい。ええと、今日ヨシノさんに 聞いていただくのは、ティータ市というとこ ろで受信されたものです。ティータ市という のは、ヨシノさんたちが眠っていた場所に一 番近い都市で」  フォーパ市とティータ市の間では、ここ半 年でかつてなかったほど交流が盛んになった。  元々はあまり縁のなかった二都市を繋いだ のは、もちろんローズガーデンの発掘作業だ。  それゆえに、サラエのいった通り各都市の 競争意識が強い翻訳作業でも、珍しい協力体 制が取られている。  ティータ市で雑音を取り除いた部分のもの が、あまりに突拍子もなかったので、信用し ない学者がけっこう出たというのもフォーパ 市に協力を求められた原因の一つだったが。 フォーパ市で同じ結論になれば信じるだろう という意図で、手を入れる前の受信記録のま ま引き渡されたのだ。  シーサだけは、それを引き取りに行った際 に雑音をある程度除去したものを先に聞いて きている。  雑音の除去作業は、フォーパ市で改めて行 なわれた。その結果は…… 「ティータ市には、ヨシノさんもフォーパ市 に来る前に一週間ほど滞在したはずですが、 憶えていますか?」  シーサの問いに、ヨシノはまっすぐな黒髪 を揺らして、うなずく。 「他都市の状況はよくわからない部分も多い のですが、このティータ市の受信記録は、か なり状態が良かったんです」  カセットを持っていた学生は、カセットを 再生する機械をガラクタの中から掘り返して、 もうあとは再生ボタンを押すだけにして話が 終わるのを待っている。 「大体なんといっているかは、ティータ市で 他のヒトにも聞いてもらったので、もうわか っているんですが……複数の言語が混ざって いるようなのです。聞いてみてください」  再生が始まると、ガヤガヤしていた研究室 の中も静かになる。学生たちは、このテープ を聞くのは初めてではないが。  静かな中に、雑音と音楽が綯い交ぜになっ た音が、まずは響いた。 「この辺はあんまり変わらないのになあ」  学生の一名がそういった。  ヨシノも、やはりあまり聞き取れないと世 話を焼くカリネに訴えている。  ティータ市で受信記録も最初の方は、フォ ーパ市での受信記録と質は大差ないからだ。  しかし、まだそこは肝心な部分ではない。 「肝心な会話の部分はこれからだよ……」  カリネが、声をひそめる。  そして、更にしんとした中に、その部分だ けが突然ラジオのボリュームを上げたかのよ うに響いた。 『……ててくれ……ね……ヤエ……帰って… ………を降ろすから! ……無事に船を…… ……………ちゃんと降ろすから。必ず……… から……ヤエが……くなる前に……で…降ろ した後そこま………できないかもしれない… …えに来て……お願い……急がなくちゃ…… …時間ない……すぐ……降りる……予測座… …送…から…来て…お願い……』 「……いって…だ? 頼………わかる……に いっ……れよ」 『迎……来て……』  雑音のせいで、ぶつ切りで聞き取りにくい のは変わりないが、会話であることまで察す ることができるほど再現されたというのは重 要だ。  そして更に重要なことは…… 「ヨシノちゃん、全然わからない部分がある っていってます、博士」 「はあ、やっぱり、わからないんですねぇ。 似た言語があったかどうか、もうちょっと数 を当たって調べないといけませんが……しか し今のところは、間に挟まっている言葉は、 『ティータ地方の訛りである可能性が高い』 ってレポート書いちゃいますかね」  ペンをもてあそびながら、シーサは首を捻 る。薄い再生紙を手にして。  ヒトの言葉の間に挟まっている台詞は、ロ ムの言語での発言だと思われる。多少訛って いるのは、土地柄の差程度のものだ。  ティータ市での訳によって、この前後で座 標を送るから迎えに来てほしいと訴えられて いるらしいことまでは、すでにわかっている。 「ヤエ……」  ヨシノが、小さくつぶやいた。 「ヨシノさん、どうしました?」  シーサが訊ねると、ヨシノはしきりに首を 傾げている。 『時間ないって……』 「? なんですか?」  感応力への作用が弱かったのか、シーサに はヨシノのつぶやきの意味がわからなかった。  シーサが聞き返すと、ヨシノは繰り返す。 「時間がないって、いってる」  今度は、ヨシノがいいたいと思ったことが ちゃんとシーサの頭に伝わる。 「ああ、そうですね……遅れてしまいました が、ちゃんと迎えに行きますから。私たちは 行けませんけど、他の方がね、もうじき出発 します」  遅れてしまったのは自分が悪いような、申 し訳なさそうな表情で、シーサはヨシノに答 えた。 『うん……でも……時間が……』  またヨシノのつぶやきは弱くなった。考え 込んでいるからだろう。  だが、ヨシノにもなぜこんなにそれが気に なるのか、よくわからない。 「迎えに、行くのよね?」  もう一度顔を上げて、ヨシノは黒い瞳でシ ーサを見る。  その確認の言葉に、シーサはうなずきで返 した。  優しい意思ごと伝わったのか、少しほっと したようにヨシノの表情もゆるむ。 「大丈夫、迎えに行きますよ」  さて今話題に上がった『お迎え』、つまり は調査団が出発する予定まで、実はあまり間 がない。  そしてそれまでに出してくれといわれてい るレポートもあって、シーサと学生たちに、 のんびりできる時間は実はないのだが。 「……博士、レポートどうするんですか?」  シーサの現実に引き戻すべく、横からおず おずとカリネがいった。 「うーん……さっきいってた通り書きましょ うか。時間ないですから、これ以上の検証は 今は無理ですし」  おっとりしていても、決断は早い。シーサ はあっさりそう決めて、ペンを握り直した。 「ロムも宇宙船に乗っていた! とかいうの は、やっぱナシですか」  学生がゴシップ紙の見出しのようなことを いう。  最初にティータ市の記録の話を聞いたとき には、だいぶ盛り上がった話だったが。 「そんなはずないでしょ。迎えに来てってい ってるのよ」  結局結論としては、地上から宇宙と交信し たロムがいるというのが、おおかたの見方だ。  では誰が? というところで、詰まってし まうのだが。  どこでというのは、この部分がティータ地 方の訛りだとすれば、ティータ地方のどこか での可能性が高いとまではいえる。  絶対の結論ではないが。 「先日から私、一つ、ある可能性を考えてる んですけど……」 「何ですか、博士?」 「裏が取れなくて」  カリネの問いに、シーサはため息で返す。 「……どうしても私には、この声がディー君 の声のように聞こえるんですよねぇ……」 ●act.3  都市の巨大さとあらゆる煩雑さに驚くとい う通過儀礼は、ディーも「ここ」に来るまで に、とうに済ませていた。  だが、まだ、それに慣れるには及ばない。 「あの……」  そのレンガ造りの建物の群れの中に紛れ込 むぐらいは、誰にでも簡単なことだった。  ディーの問題は、そのどこに何があるのか、 ちっともわからなかったことだろう。  ディーには広大なキャンパスの中で、シー サに出会うのはとても困難なような気がした。  だが、いいや、と自分の考えを否定するか のように首を振る。  ずっと遠い場所から、ここまでやってきた のだから。それを線ではなく面で考えたなら、 もっともっと広大なエリアの中で、移動を続 けてきたのだ。  ならば、このキャンパスの中でシーサを捕 まえることは、今までと同じか、それより大 したことではないと考えるべきだ、と。 「シーサ博士が、どこにいるか知らないか?」  道がわからなければ、聞いてみよう。それ が迷子の約束だ。 「シーサ博士? さっきホールのところで見 かけたけど」  シーサがここのところ有名なのは、シーサ を探すのに大変プラスだった。今いるところ を知っているかどうかはさておき、シーサ自 身を知らないという返事はディーが考えてい たよりも少なかった。  おかげで「シーサ博士」という名前だけを 頼りにしても、ディーは遠くアルグの町から、 このフォーパ市までたどり着けたのだ。 「ホールって、どっち?」  あっち、と学生はアバウトに示した。 「気をつけて行ってらっしゃい」  調査団に選ばれた者たちが、そこには集合 していた。まさにこれから、ここから出発す るのである。  今はシャンデリアには灯が入っていなかっ たが、舞踏会もできそうなホールだった。そ の中には、選ばれて行く者と見送る者がひし めいている。  シーサもその中にいたが、その中の圧倒的 多数派である見送る側に属していた。 「お父さん、食事はちゃんと食べるのよ。い つも体を清潔にして、服は洗ったものにして ね」  今をときめくシーサ博士に憧れる学生など が聞いたら、一気に熱が冷めそうな台詞だ。  しかし現実には必要なので、こまごまとし た注意をハンナは繰り返した。  その娘の心配ぶりを遠まきに見るなら、知 らない者には、どっちが出発するのかわから ないだろう。シーサの顔と業績を知る者なら、 よけいに勘違いしたかもしれない。 「大丈夫ですよ、ハンナ。ちゃんとします。 安心して行ってきてくださいね。だから」  シーサはしっかと娘の手を握った。 「……あの話? わかったわ、どうしてなの かはわからないけど……ディーを見かけたら、 何をしているのか聞いて、お父さんに連絡す ればいいのね?」  ハンナは怪訝な顔を隠さなかったが、その 答にシーサは十分満足したようだった。 「お願いしますね、ハンナ」 「わかったけど……」  ハンナは、まだ納得いかない。  ティータ市から送られてきた受信記録の音 取り作業が、ほぼ出発ぎりぎりまでかかった からだ。もっと広い範囲の関係者に公開され るところまでには、間に合わなかったからだ。  もしハンナもそれを聞けたなら、十分に納 得できたかもしれない。また、父親よりは上 手に、シーサが調査隊に着いていきたいと思 う旨を代弁できたかもしれなかったが。  それはもう、過ぎ去った「もしも」だ。  そして何が幸運であったかは、更に未来で ないと正しい判断はできない。 「ハンナさん、ご挨拶して」  隙間を縫うように近づいてきたサラエが、 ハンナを呼んだ。 「サラエ博士……そちらの方は」  ハンナは声がしたと思った左斜め後ろに振 り返り、近づいてくるサラエと、それに従う ように近づいてくる青年を視界に入れた。  ハンナもシーサも青年が誰だかはわかって はいたが、近くで見るのはそれが初めてだっ たので、思わず感嘆のため息が漏れる。 「わあ、近くで見ても美青年ですね」  シーサは更に正直に感想を述べたので、ハ ンナは自分のことのように、恥ずかしさに顔 を伏せた。 「何をおっしゃっているの、シーサ博士」  眉根に筋を立てて、シーサの感想にはサラ エが答える。  慣れているのか、どうでもいいのか、美青 年と評されたほうは顔の筋肉一つ、はつかね ずみ色の髪の毛一筋、動かさなかった。 「改めてになるけれど、簡単に紹介しましょ う。こちらはコーラル・ライド氏。パトリキ オの方で、調査隊の実務面での責任者だそう よ」  コーラルはすらりとした肢体を華麗に沈め て、自分の名前だけをサラエの説明の後に繰 り返した。  ここで、パトリキオとは、という説明を入 れなくてはならないかもしれない。  それは巨大な傭兵派遣組織というのが、近 いだろうか。またパトリキオとは、その構成 員の名称で総称であるともいえる。  パトリキオの発生については割愛するが、 彼らはただ一つともいえる資格を有し、それ を遵守することを絶対の所属条件にしている。  パトリキオは、任務にある限り、紳士であ ることがその資格のすべてである。裏切らぬ こと、約束を守ること。広い意味で、配慮を 怠らぬこと。  パトリキオの資格とは、信頼できる者であ り続けること。そうあることを怠るならば、 資格を失う。  今、コーラルがハンナの前にいることも、 努力の一環である。 「調査隊への同行者全員の顔と名前を憶えて おきたいそうだから、ハンナさんもご挨拶し て。あなたが最後よ」 「は……はい。ハンナ・シーサです。古生物 学専攻の研究生で、サラエ博士の元で、ヒト の生態の研究を主としています。よろしく… …おねがいします」  ハンナはやっと顔を上げて、当たり障りの ない自己紹介をした。 「こちらこそ、よろしくおねがいする。航行 中の注意事項などは船に乗船した後に行なう ので、ご協力いただけますよう」  無表情から一変して、微笑と柔らかい声音 でコーラルが答えたので、ハンナはどぎまぎ した。少女の反応としては、歳相応といって もいいだろうが。  だが、その微笑みに特別な意味はなかった ことを示すかのように、コーラルの視線はす ぐ横に移動した。 「シーサ博士は研究のために、調査隊には同 行なさらないそうで」  残念です、とコーラルはいった。お愛想だ けではない、正直な感想であるようだった。  他の都市へも同じように迎えが行っている が、シーサがいるから、フォーパ市の代表を 迎えには責任者である自分が来たのだと続け る。 「行きたかったんですけどねぇ……」  と、シーサは心から残念そうにつぶやく。 「行けないものは仕方がありません。気をつ けて、行ってらしてください。成果と無事を お祈りしていますので……ユドリさんも、気 をつけて」  シーサは、屈託なくサラエの手も取った。 「駄目だ、今はホールの中には入れないんだ っていうのに」 「どうしてさ! いいじゃん、ちょっとぐら い」 「ちょっとぐらいとか、そういう問題じゃな くてだな」 「シーサ博士が中にいるかどうか、見させて くれるだけでもいいんだよ」 「だから駄目だって」  これは、押し問答とかいうものである。  相手の要求に応ずる姿勢が双方に欠けてい ると、こうなりやすい。  ということで最初の大ざっぱな道案内のた め、更にいくらかの手を煩わせてからディー はホール前までたどり着いた。  式典部分の始まる前だったら、出入りする 者の中に紛れて中を覗くぐらいはできたかも しれない。  だが、残念ながらディーがホールの前にた どり着いたときには、ホールの正面入口は閉 じられた後だったのだ。  で、今に至るというわけである。  閉じられた入口の前にはガードマンが立っ ていて、ディーはそこを突破することができ なかった。 「きみ、労働階級だね?」 「……そうだけど……なんだよ」  突然身分の話を持ち出されて、ディーは唇 を噛んだ。  実はディーやシーサの所属する大きな意味 での国には、身分制度が遺っている。過去の 王国時代ほど厳然としたものではないが、上 から「施政階級」「経済階級」「労働階級」 となり、それらは未だあらゆる場面において 顔を出す。  たとえば、階級を超える結婚は強く忌避さ れる傾向にある。何事にも例外はあるように、 それは絶対ではないけれど。  ディーは開拓民だけの町で育ったので…… つまり全員が労働階級の社会で育ったので、 町を出るまでは、身分制度についての認識が とても薄かった。だが、いくつかの都市を巡 ってこのフォーパ市にたどり着くまでには、 この認識の薄さゆえに、身分という制度の前 に何度か苦い思いもする羽目になったのだ。 「シーサ博士は元のお生まれは施政階級だそ うだから、きみみたいな労働階級の子に知り 合いがいるはずないよ」 「この大学の中じゃ、身分は関係ないんじゃ なかったのかよ!?」  ディーは、ここでも身分がつきまとうのか と噛みついた。ディーたちの所属する連邦に おいては、学問を大変尊ぶ。そして、その学 問の徒の中においては、能力と実績だけが評 価の対象となり、ここでだけは生来の身分は 関係がないものとされているからだ。  身分を持ち込んで研究を評価することは、 逆に評価する側の評価を落とすことになる。 上流の生まれのシーサも、かつては爪弾きに あったというのが一つの例になるだろう。 「そりゃ、学徒なら、そうだけどね」  きみは違うだろう、とガードマンの男性の 言葉は諭すように優しかった。ディーが辺境 から出てきたことは、服装から見てわかった らしい。都市の流儀に慣れない田舎者だと思 ったのかもしれない。  そう思われたことが、ディーには、なお悔 しかったが…… 「有名なシーサ博士に会いたいんだろうけど、 きみみたいな子は多いんだよ。いちいち取り 次いでいたら、きりがないほどなんだ。シー サ博士は今、大切な研究をしていてね、きみ たちの相手をして時間を取られるわけにはい かないそうだ……そういいつかっているのさ。 さあ、門まで送っていってあげるから」  泣きそうな気分を喉の奥に飲み込んで、デ ィーはガードマンに取られた手を振り払った。 「もういいよっ!!」  そして背を向けると、闇雲に走り出す。  ……調査隊の出発のためにホールの扉が再 度開いたのは、このすぐ後のことだった。 「ちぇ……」  ここまで来てシーサに会えないというのは、 ディーにとって本当に計算外だった。  会えないかもしれないと思うと逆に、会っ てもどうにもならないかもしれないという最 初にねじ伏せたはずの不安が、再度膨らんで くる。会えないなら、すっぱり諦めて別の方 法を模索するべきではないか、と。  そう、最終的な目的は別にあるのだから。  ローズガーデンで見たあの少女を、探すこ と。自分に対して何を求めていたのか、もう 一度聞くこと。それが叶うなら、どんな方法 でもかまうまい。  だが……それを追いかける具体的な方法が、 ディーには思いつかない。ただ一つのつてが、 シーサの知識だったのだ。  大学の門の前の地面に座り込んで、あの日 ローズガーデンで聞こえたメロディーを口ず さむ。尻尾でリズムを取りながら。  それはあの日、最初から繰り返し繰り返し、 ずっと流れていたから、印象に残っていた。  まだ門の前から離れられないのは、まだ諦 められないからだ。もしかしたらシーサが、 この門を通りかかるかもしれないと……残念 ながらディーは、この大学に門が複数あるこ とを知らなかった。  皮肉なことには、実はこの頃、シーサは他 の門を出入りしていたりする。  だが世の中、不運ばかりではない。 「きみ……? ね、ちょっと聞きたいことが あるんだけど……いいかな? どこで、その 曲、聞いたんだい?」  座り込んでいた自分の上に陰りができて、 ディーは前に立った男子学生を見上げた。  見知らぬ青年だった。二十歳前後、という ところだろうか。 「これ? ローズガーデンの遺跡で聞いたん だ」  それがすごく重要なことだとか、一般には まだ秘密になっているとか、そういった認識 はディーにはまったくない。  だからディーは、聞かれたことにありのま まに答えた。ぼんやりと口ずさんでいたメロ ディーがわずかに幸運を呼び込んだとは、こ のときはまだ気づいていない。 「けっこう前……だよね? よく憶えてるね」  学生は、キョロキョロとあたりを見回した。 誰か聞いていないか、確かめるように。 「そうだけど……よく知ってるな」  なぜその学生がそんなことを知っているか、 ということにも、まだディーは思い至らない。 「雑音、ひどかっただろ? よくそんな風に 口ずさめると思って」 「え? 雑音は入ってたけど……曲がわかん なくなるほど、ひどくはなかったぜ」  そうなのか? と、笑おうとして失敗した ような顔で、学生はいった。 「……ローズガーデンの、中で聞いたのか?」  無理に笑おうとするのをやめたのか、学生 は厳しいほど真面目な顔になって、そして更 に声を低めた。  そのときになって、ディーはやっと自分が マズイことを口にしてしまったのではないか という疑問を抱いた。通りすがりの見知らぬ 学生の質問にしては、細かすぎはしないか。 厳しくはないか。  ローズガーデンには入ってはいけないと、 そういわれていたことを、この学生は知って いるのかもしれない、と。 「えっと」 「ごめん、恐がらなくていいよ。きみ、名前 は?」  ディーは答えるべきか、少し悩んだ。 「あのさ、僕はカリネっていうんだ」  カリネはディーを安心させるように、自分 の名前を慌てて先に名乗る。  ディーにはわからなかったけれど、ディー の声を最初にちゃんと聞いたとき、カリネは 本当に驚いたのだ。  記録音声に混ざっていたロムの言葉の部分 の声と、よく似ていたから。その訛り方さえ、 よく似ていたから。  そしてよく似た声の少年が、確かにローズ ガーデンの近くの町にいることを、シーサが いっていたからだ。  そういわれてみればと、半年ちょっと前の、 ローズガーデンの最初の発掘に着いていった 学生たちも認めていた。  カリネは旅費を捻り出せなくて最初の発掘 に着いていけなかったことを、とても後悔し たものだった。……だからこそ今、この重大 な手がかりかもしれない少年を逃すわけには いかないという……野心ともいえる思いで、 ディーを見つめている。 「あの」  これはハンターの目だ。尻尾も立っている。  このときには、自分は何かものすごくマズ イことをいったのかもしれないと、ディーは 考えていた。  普通、こういう目で通りすがりの者を見る ことは、ない。 「……あっ! あれ!」  追いつめられて使ったのは、非常に古典的 な手だった。  ディーは声をあげてあらぬ方向を指し、一 瞬だけカリネの気が逸れた隙を突いて跳ねる ように立ち上がって、そのままダッシュする。 「あっ! ちょっと待て! 待てってば〜!!」  都会育ちのカリネでは、全速力のディーに はとても追いつけなかった。 「ええ!? ディー君がいたんですか〜!?」  多分、というカリネの報告に、シーサは一 度飛び上がるように立ち上がって、すぐ力が 抜けたように再び椅子に座り込んだ。 「名前は聞き出せなかったんですが……」 「うーん、容姿からして、ディー君で間違い はないと思います。どうして、というのは、 やっぱりアレですかね」  シーサは腕組みして、考え込んでいる。  シーサが連絡したときにはアルグの町から いなくなっていたディーは、てっきり、まっ すぐ南洋に向かったものだと考えられていた。  だからシーサは調査隊に同行したいと考え たのだし、ハンナに「ディーを見かけたら」 と頼んだのだ。  その発想は、間違いだったらしい。  そうわかってみれば、理由にもすぐ思い至 った。ティータ市の受信記録に残っていたよ うに、本当に相手が何をいっているのかわか らなかったのだろう。  シーサは、受信記録の中には自分たちには 解析できない、あるいはそもそも受信できな かった部分があっただろうと考えていた。  たとえばローズガーデンで目にしたような、 映像やスクリーン上の文字。ああいうものだ ったら、ロムの最新技術でも完全な受信再生 はおそらくは不可能だ。  それを、ディーは見たか聞いたかしたので はないかと考えたのだが。 「アルグから、ここまで来た理由は……博士 を頼ってのことですよね。博士以外に、あの 子、フォーパに頼りはないんでしょう?」 「ないと思いますね。町を出たことはないと 聞きましたから」  更にシーサは考え込む。  他の誰にも知りえない部分をディーが見た としても、やはり理解はできなかったのかも しれないということには、今まで思い至らな かった。当然思い至るべきことだったのだが。  そのあたりが、シーサの特性でもある。 「さて、どうしましょうかねぇ」  シーサが最初に期待していたような飛び抜 けて新しい情報を、ディーはもたらしてはく れないかもしれなかったが……  だがシーサは、辺境から自分を頼って出て きた少年を突き放すことができるような性格 ではない。ましてやディーは、わずかな間で あれど不遇の時代に、ちゃんと話を聞いてく れた少年である。  そしてまだディーの持っている情報に価値 がないと決めつけるのは早計だとも、シーサ は考えをひとめぐりさせた後に結論する。 「すみません、僕がもっと上手く話をすれば よかったんですけど」  カリネは心から申し訳なさそうに俯いた。  しまったと思ったときには、後の祭りだっ たのだ。 「本当に申し訳ありません……」 「いや、もう謝ることはありませんけれども。 うーん、これからどうするかを、一緒に考え てくださいな。きっとまだね、ディー君は、 フォーパ市の中にいると思うんですが……」  シーサは身を乗り出して、声をひそめた。 まるで、悪い相談を持ちかけるときのように。 「……そうですね、シーサ博士に会いたくて フォーパ市に来たんでしょうから、すぐ諦め たりはしないんじゃないでしょうか」  それにつられるように、カリネも身をかが め、声を低める。 「行きそうなところとか、いそうなところと か、探してもらって見つかると思います?」  いや、とカリネは眼鏡を押さえて、首を横 に振った。  残念ながら、当てずっぽうに探して見つか りそうなほど、フォーパ市は狭くないだろう。 「シーサ博士に会いに来たのでしょうから、 博士が彼から見えるところに行けば、向こう から出て来てくれるとは思いますけど」 「う〜、今、私が外をうろつくと、教務担当 の皆さんが、ものすご〜く怒りそうな……」  だから、シーサは調査団の参加できなかっ たのだ。研究室に籠もって受信記録の翻訳レ ポートを書く以外のことは、きっと何一つ認 めないに違いないと……おっとりとすべてを 前向きに見ることができるシーサでさえ、そ う思うほどに。 「でも……」 「それで、ディー君を見つける前に連れ戻さ れては仕方がありませんからねぇ」  自分が出ていくのは賭けである、とシーサ は結論した。最後に必要であれば、出ていく こともやぶさかではないが。  カリネは、それも事実であることを認め、 「すみません」  と意見を撤回しようとした。 「いえいえ、私を囮にするのは、良い案です。 私が出ていけさえすれば、最も確実性が高い でしょう。そうです、私が出て行かなくても、 私が彼の目に触れればいいわけですよ」  どうやって? とカリネは首を傾げる。  シーサはカリネを手招きし、更に声を小さ くして、耳打ちした。 「……これなら、ディー君が見たら、自分か ら来てくれるんじゃないですかね〜。教務の 方も私が外に出なければ、そんなに目くじら たてないですよね?」  カリネは首を捻った。確かに、自分から名 乗り出てくれる可能性も高いが……ディーの 身が危なくはならないだろうか、と、ちょっ と頭の隅に警告音が鳴っている。 「博士……理由、どうするんですか?」 「理由、必要ですか?」 「いや、なくても効力は変わらないと思いま すけど……こういうのって、理由ないと、憶 測で変な噂になりますよ」 「じゃ……家出少年ってことで、どうでしょ うかね」  カリネは、ないよりマシか、と自分を納得 させた。  これに反対するための、もっと良い代案は、 カリネには思いつかなかったので。 ●act.4  ……どうしようかなあ。  下町の安宿のベッドに転がって、ディーは この先どうするかを考えていた。  あの後、大学には近寄っていない。ほとぼ りが冷めたら、もう一度行ってみようと思っ てはいるが……さて、ほとぼりが冷めるのは いつだろうか、見当がつかない。  のんびりしていていいのだろうか、と思い もする。今も、あの子は泣いているのだろう か……と。早く行ってやらなくてはいけない のではないか、と。  あの日ローズガーデンに現れたあの子の前 に現実に立ちさえすれば、あの子が何を望ん でいるのかは、わかるはずだった。  だからまず、あの子を探そうと思ったのだ。 「……あと、いくら残ってたっけな」  カバンをベッドの下から引っ張り出して、 ディーは持ってきた金の残りを数えた。  冒険に出るためにずっと貯めていた小銭は、 もう残り少なくなっていた。このままどこに 行くにも、この金額では心許ない。もちろん、 ここの宿代だってただではないし、一日食べ るのにだって金がかかる。  こっちのほうの事情も、のんびりとはして いられないと、ディーを急かしていた。  よし、とディーはベッドから立ち上がると、 一日ぶりに宿の階段を降りた。  階段下の小窓からいつも出入りを見ている 受付の婆さんはうとうとしていて、ディーは 起こさないよう静かにその前を通り過ぎる。  雑然とした下町に出ると、ディーは宿のす ぐ隣にある食堂に入った。  まずは腹ごしらえと、そしてできれば日雇 いか何かの仕事を見つけることができないか と思って。  ディーが食堂の中に入ると、まだ陽も高い というのに酒をあおっている男たちも、けっ こういた。その間を擦り抜けて、カウンター へ近づく。  なぜだかディーは、テーブルの男たちがち らちら自分のことを見ているような気がした。 「なんか食べられるもんと……あとは、水で いいや」  さっき数えた小銭の数を考えると、贅沢は できない、とため息一つ。  カウンターの中にいた食堂のマスターは、 まず木杯に水を酌んで、ディーの前に置いた。  髭の厳ついその顔が、ちょっとニヤついて いるような気がして、なぜなのかディーは首 を傾げる。 「家から持ってきた金が尽きそうなのかい? ぼうず」  マスターは、そういった。 「うん……でも、なんで?」  なんでそんなことがわかるのか、とディー はびっくりして目を丸くする。それは事実だ けれど、誰にもいってはいないことだ。  水でいいや、なんていったせいだろうか、 とちょっと後悔する。 「まあ、いいや、本当のことだしな。なあ、 マスター、なんか働き口ないかな?」  できれば日雇いか短期間で、とディーは持 ちかけてみる。  だが、マスターはやっぱり笑っていた。  カウンターの隣の椅子に座っていた大男も、 ニヤニヤと笑っていて、マスターよりも早く ディーに答えた。 「おまえさんに働くのは無理だって。早く、 おうちに帰りな……おまえさん自身が、金に なる前にな」 「へ?」  その間にマスターは、カウンターテーブル に煮込みの皿を置いた。そして空いたほうの 手では、しっしっと何かを追い払うような素 振りをしている。  それが自分へのものではないことはディー にもわかって、その手の向く先に視線を巡ら せた。  斜め後ろのテーブルにいた男たちが、なめ るようにディーのことを見ていた。その目は つい昨日、大学の門の前で見たものと同じ。  獲物を狙う、ハンターの目だ。  ちょっと宿に籠もっている間に何か状況が 一変したらしい、ということまではディーに も理解できた。  理由といえば、思い当たることは一つだけ。 大学の門の前で会った、あの学生が関わって いるに違いないと……それだけだ。  自分はそれほどにとんでもないミスをやら かしたのか、と、ディーはぞっとする。  不安を感じながらも空腹には耐えかねて、 ディーは木匙で煮込みをすすった。 「ちゃんと家に戻れよ、ぼうず。いや、大学 にか? 寮生なのかい?」  だが、マスターの言葉に気を取られて、す ぐその作業を中断しなくてはならなかった。 「な……なに? 何だって?」  家に戻れはともかく、大学にとはどういう 意味か。  ディーはマスターに何をいわれているのか、 まったくわからなくなって、目をぱちくりさ せた。 「なんだなんだ……とぼけなくてもいいぜ。 ああ、うん、この辺には荒っぽいのもいそう だからなあ。金になるなら、自分で戻るって いってもくっついていって、金をせびりそう な奴はいるけどよ」  そういったのは隣の大男のほうだった。  初夏といっても、このあたりはまだ涼しい ほうだ。大男は、もっと暖かいところから来 たのか、寒さになど頓着しないのか、真夏の ような薄着でいる。 「いや……いや、ほんとになんのことだか、 わかんねってば。俺、この町に来たの、ほん の三日前なんだぜ」  うんうん、と訳知り顔でマスターと大男だ けが納得しているので、ディーは訳がわから ないといいたげに、薄茶の髪を掻き回した。 「三日前〜? ぼうず、一日で大学から逃げ たのか?」  マスターがあきれた声をあげる。 「だから何の話だってば!!」  あまりにわけがわからないので、声が大き くなった。  本当にディーには知らないところで、知ら ない話が勝手に動いているらしい。 「おいおい、あんまり意地を張るなよ。おま えさんにかかってる賞金は大した金額じゃあ ないが、世の中にゃあ、小銭稼ぐために手荒 なことをする連中もいるんだぜ」  とっとと自分から戻るのが身のためだ、と 大男は諭すようにいった。見た目の厳つさの わりには、親切心が強いのかもしれないとい うことは、ディーにも感じ取れる。  未だ話の中から肝心な内容が抜けている理 由に、ディーはやっと理解が及んだ。店のマ スターも隣の客も、ディーが知らないはずは ないと思っているから口にしないのだという ことは。  ディーはまず、中断していた食事を急いで かき込むことにした。とりあえず食べて、話 はそれから…… 「……俺にかかってる賞金って、どういうこ と? いつから?」  わかっていることから、確認していくしか ない。大男の客がいうことが本当なら、自分 には知らないうちに賞金がかかったのだと、 ディーは顔をしかめた。  なら、斜め後ろの男たちの視線が背中に刺 さることにも、納得はできる。 「なんだ、知らなかったのか」 「そうか、そうかもな。知ってたら、堂々と 顔さらして、のこのこ出てきやしねぇわな」  マスターと大男は納得した顔で、うなずき あう。  それにちょっぴりイライラしながらも、デ ィーは辛抱強く返答を待った。 「ぼうず、こいつを見な」  そういってマスターは、カウンターの上に 置いてあった新聞をディーに手渡した。 「今日の新聞だ。フォーパじゃ、一番部数が 大きいってとこのだ」 「俺、読み書きはあんまり得意じゃ……」 「広告欄ぐらい読めんだろ。読めなくたって、 おまえさんのとこは似顔絵付きだ。鏡見たこ とがありゃあ、すぐわかるぜ。上手く描いて あっからな。俺だって、おまえさんだとすぐ わかった」  大男の、いう通りだった。 「博士……」  賞金付きのウォンテッド広告。誰が描いた のか、ご丁寧に似顔絵も入っている。  広告主は、シーサだった。  ぽかんと半口開けて、ディーはしばらく、 その新聞を眺めていた。 「これ、もらっていい!?」  何がどうなっているのかは、ディーにはま だわからない。だが、シーサが自分を探して いるのは確かなようだった。  このフォーパ市にディーが来ていることを シーサがどこで知ったかはともかく、知らな ければこんなことはするまい。これはディー の目に触れる可能性も、十分に意識してのこ とだろうとは思う。  怒ってのことか、心配してのことか……ど ちらにしろ、シーサのほうからディーを呼ん でいるのだ。  シーサが呼んでいるのだから、堂々と訪ね ていけばいい。今度こそ門前払いはあるまい。  あるいは、そうならないために……シーサ はこういうお膳立てをしてくれたのかもしれ ない。  そう、ディーは判断した。 「行くのか?」 「うん」  ディーは立ち上がって、カバンを肩にかけ る。 「じゃ、こいつはくれてやるよ」  大男が、カウンターテーブルの上にディー が置いた新聞で、ディーの胸元を叩いた。  それがすごい力で、ディーはわずかによろ めいたが、男の手から新聞をむしり取るよう にして踏み止まった。 「それ、あんたの新聞じゃないでしょうに」  そういった声は、ディーには初めて聞く声 だった。女の声だ。  席に着いた後はディーからは見えていなか ったが、そういえば、と大男の向こうには小 柄な女性が座っていたことを思い出す。 「いいさ、姐さん。持ってけよ、ぼうず」  カウンターから数歩離れて、ディーはもう 一度カウンターを振り返った。マスターはも ちろんだが、大男と、その隣のさきほどの声 の女性もディーのほうを向いていた。  女性の顔はこのとき初めて見たが、思った よりも若い。ハイティーンというところだ。  大男と同じような薄着の、ちょっと露出度 の高めな美女というよりは、まだ美少女とい うところだろうか。はつかねずみ色の髪に赤 い布を巻いているのが、印象的だった。  マスターが「姐さん」などと呼んでいたか ら、ディーはもう少し歳のいった女性を想像 していたのだが…… 「ありがと!」  そういって新聞の丸めたものを片手で掲げ て、ディーはその食堂を出た。 「シーサ博士……これはいったい、どういう ことですかな」  新聞を丸めたものを片手に握り潰して、教 務担当の古株事務員はうなるような声でいっ た。  ディーが食堂にいたときと同刻の、ここは 大学構内。シーサの研究室前である。 「はあ……」  しかめつらも極限まで来ると、笑いを誘う。 事務員の眉根は寄りすぎて、眉間で一本に繋 がっているように見えた。  だが、ここで笑うと収拾がつかないことは シーサにもわかったので、我慢して俯く。 「はあ、じゃありません。さきほどから大学 には、ディー・クロウを名乗る者を連れた者 たちが二組ほど来ているんですが」  そのシーサの姿は、反省しているように見 えただろうか。それとも、もういっても無駄 な相手だと諦められたのだろうか。  シーサは覚悟して身構えていたが、いつも のようにクドクドと説教は繰り返されず、話 はすんなり用件に入ったように思えた。 「えっ、ディー君がそんなに来たんですか?」 「……そんなわけがないでしょう! 同じ者 が二名も! 賞金をせびり取ろうと、偽物が 来ているんですよッ!!」  突然フルボリュームで叱られて、シーサは 耳を押さえて小さくなった。 「追い返しますよ、いいですね!?」 「ああっ! 待ってください〜。どっちかが、 本物かもしれないです〜」  研究室の扉のところで立ち話だったので、 事務員は扉も閉めずに、足音も高く立ち去ろ うとする。それにシーサは、恥も外聞もなく すがりついた。 「私が見ればわかりますから、ちょっとだけ ……ちょっとだけ!」  事務員もつわもので、断固として歩みを止 めようとしない。  シーサをずるずる引き摺ったまま、五歩ほ ど進む。そこで、どうにも進めなくなって、 事務員は振り返った。 「あんたら……」  シーサの後ろに、団子のように学生たちも 繋がって引き摺られていた。さすがに重くて 動けなくなるはずだ。  すばらしい連携、連帯というべきか。 「今やってるレポートに、どうしても探して る少年の証言が必要なんですっ!」  カリネが口火を切ると、学生たちの声が続 いた。 「ないと終わらないんですっ!」 「あればあっという間に……!」  嘘も方便。  いや、半分ぐらいは嘘でもないか。  事務員は、とりあえずこのままでは、一歩 も動けないことを悟った。  多分、これにうなずくまでは。  ディーは食堂を出ると、いったん宿に戻っ た。荷物は元々持てるだけで部屋に残しては いなかったが、精算を残していたので。 「婆ちゃん、婆ちゃん。とりあえず出るから さ、今朝までの分で精算してくんないか?」  まだ居眠りをしていた婆さんを揺り起こし て、ディーはチェックアウトを告げた。  前払いで払った分に過不足はなかったかと 確認して、計算してもらう。 「一日ずつ前払いだったから、宿代の未払い はないね。まだ日が高いから今日の分は勘弁 してあげるよ」  備品は壊してないだろうね、といわれて、 ディーはうなずいた。 「ちょうどだね、まあ……気をつけてお行き」  店番の老女が送る言葉にそういったのは、 ディーの近い未来が予測できていたからかも しれない。  だが、そのときのディーには、それはわか らなかった。  わかるまでにも、そう時間は必要なかった けれども。 「で……? 見つかるまでこれを続けようっ ていうんですかね、博士」 「……申し訳ありません」  再び大学構内。  二名のディー・クロウの顛末は、当然のこ とながら両方偽物であった。  元々偽物で丸々賞金をもぎ取れるとは思っ ていなかったのもあるのだろうが、偽物とわ かっても開き直って「交通費」をせびろうと するチンピラもいた。  が、事務員のキャンパスにに轟き渡る一喝 で、すごすご引き下がった。警備員が出てく るまでもなく。  この道ン十年の事務員としては、そんなも のは前座でしかない。本番はこれからだった。  多分。 「夕刊には、取り消しの広告を出してもらい たいですがね、博士」 「いや……でも……」 「でも、なんですかな?」 「……」  祈るように、シーサは事務員を見た。 「こんなことを、まだ続けようと?」  祈りは半分だけ、通じたようだった。  口にしなくても、シーサがどうしたいのか は、事務員に通じたらしい。感応力の恩恵だ けではあるまい……事務員側の慣れという部 分は大きかろう。  しかし慣れは、必ずしも諦めに結びつくも のではないようでもあった。 「こんなことじゃ、仕事にならないんですよ。 博士、こっちの不都合をわかっていただけま せんかね」  この件については一歩も退かぬという気迫 が、事務員には漲っている。もう年配である ということなどは、その闘志には関わりのな いことのようだ。 「じゃ……じゃあ、今日一日。明日の一番の 新聞に取り消しの広告を出しますから」  百パーセントの勝利はありえないと本能で 悟ったか、シーサは事務員にまたもすがりつ く。 「せめて今日一日」  と、そのときのことだった。 「主任、ディー・クロウを連れてきたから、 シーサ博士に会わせろっていうのが」  若い事務員が、事務室に入ってくるなり、 そういった。 「……今日一日で、どのぐらいディー・クロ ウが来るか賭けてみますかね、博士?」  がらんがらん、と金属の音がした。  路地裏に何の缶が転がっていたのか、ディ ーにはわからなかった。先に見ているような 余裕はなかったし、この後にも見て確認する 余裕はないに違いない。  ディーが宿の精算を終えて表通りに出てか ら、さてこの路地裏に引っ張りこまれるまで に、どのぐらいかかっただろうか。多分、太 陽はそれとわかるほども、その位置を変えて はいまい。 「送ってってやるっていってんだよ、ありが たく思えや」  そのゴロツキの主張は、そういうことだっ た。 「よけーなお世話だ」  ディーの主張は、そういうことだった。 「可愛くねえな、このガキ」  ゴロツキの感想はそういうことで、これに も余計なお世話だとディーは心から思ったが、 きちんと自己主張する間もなく路地裏に叩き こまれた次第だった。 「ほれ、道中どこに危ない奴がいるかわかん ねぇぜ? 送られる気になったらいえよ」 「なんねぇよ、ロクデナシ」  たとえそれがどんなに真実でも、こいつの 世話にだけはならないと決心して、ディーは しりもちをついた格好のまま、ゴロツキを見 上げた。 「しょーがねーなぁ……どんなことになって も、おまえが悪いんだぜ」  どうやらゴロツキは腕づくでディーが送ら れたくなるように……あるいは送られざるを えなくなるようにするつもりらしい。  パン!と手を鳴らしている。  ディーはこの窮地からどうやって逃走した ものか、急いで考えなくてはならないようだ。  ディーは後ろ手に、カバンを探る。フォー パ市に入る際に取り上げられこそしなかった ものの、カバンの中からは出さないように厳 重にいわれた麻酔銃が入っているはずだ。 「倒れてたおまえを助けて大学に届ければ、 謝礼金はもらえるだろうからな」  ぐっと襟首をつかみあげられて、引っ張ら れる。意識不明になるところまでやる、とい う危険きわまりない宣言だ。  そのとき、やっとディーはカバンの中で麻 酔銃の握りに手がかかった。  だが。 「そのボウヤにゃ価値があるが、おまえさん はボロクズみたいに倒れてたら、その辺のゴ ミと同じだな。どうするよ? きっと拾って くれる奴はいないと思うぜ」  銃を引き抜くより早く、ぬっと大男の陰が 視界に飛び込んできた。ディーはゴロツキの ほうに集中して気を取られていたことをさっ ぴいても、その登場は素早かった、と思う。  視界の中に現れたときには、そのディーの のものの倍ほどもある掌が、ゴロツキの頭を つかんでいた。  そのままゴロツキの頭ぐらいは握り潰せそ うだ、とディーは思った。  同じことをゴロツキも感じたのか、顔から 血の気がさーっとひいていくのが見てとれた。 「ま……まてよ、俺は危ないから、送ってっ てやろうって、親切心でな」 「おお、偶然だなぁ。俺もそうなんだよ。俺 は、多分おまえさんよりも前から目をつけて たんだぜ。そいつを横取りたー、ふてぇ野郎 だな」 「……旦那、そりゃねぇよ」 「いっとくが、俺は半々とか分け前とかいう 言葉は嫌いでな。さて、どうするよ」  ぐっ、と掌に力が入ったのが、ディーにも わかる。  わかったわかった! とゴロツキがわめき だすまでは、ほんのわずかな時間だった。 「ものわかりがいいと長生きできるぜ。じゃ あな」  物でも投げるように、大男は路地裏からゴ ロツキを投げ出した。  ゴロツキの姿が路地の中から消えてから、 少し時間差があって、ウギャっと情けない声 がした。ディーからは何も見えなかったが、 それっきりゴロツキは戻ってこない。  すぐに確認に行くことはディーにはできな かったので、結局ゴロツキの身に最終的に何 があったのかはディーに知る機会はなかった。  さて、ディーはといえば。 「……ということでな、ボウヤ。よかったら 大学まで送っていってやろうか?」  これは状況が好転したのか、してないのか、 まずそこから考えなくてはならなかった。  大男は、もちろん食堂で隣に座っていた大 男だ。悪い奴ではないだろうと思っていたし、 今も思っている。  とにかく、今ゴロツキの魔の手から助けて くれたことは紛れもなく事実だ。  ディーは立ち上がって、大男を見上げた。  考えているだけでは結論は出ないので、単 刀直入に聞いてみることにする。 「……賞金目当て?」  大男は笑った。 「馬鹿にしてんじゃねーぞ、ガキ」  台詞と笑顔が釣り合っていないところが、 妙に恐かった。 「でもな、タダじゃねぇってのは正しい。俺 らはトレーダーなのさ。貿易っていうのは、 わかるか? 少年」  ディーは首を縦に振る。故郷の町にも、キ ャラバンは時々やってきた。 「貿易ってのは……簡単にいうと物を運ぶの が商売でな。普通は安いとこで買い込んで、 高く売れるとこで売るもんだ。だが、金さえ もらえりゃ『荷を運ぶだけ』っつー仕事も、 アリだ」  てなとこで、どうだい? と大男はディー の顔を覗き込む。 「おまえさんが俺を雇うなら、おまえさんっ ていう荷物を無事に大学まで送り届けてやる」 「俺、あんま金ないよ」 「たかが市内だ、そんなべらぼうな料金にゃ なんねぇよ。ちっとはマケてやるぜ」  ディーは小銭の残りを、急いで頭の中で勘 定した。この先、大学までのわずかな距離に、 さっきのゴロツキみたいなのが、どのぐらい いるだろうかと想像しながら。 「……わかった。でも本当に俺、貧乏なんだ。 足りなかったら」 「そのときはしゃーねえな、出世払いで勘弁 してやらあ」  大男は腕組みして、うなりながら息をつい た。それから、後ろを振り返る。 「船長、契約取れましたぜ」 「あたしが取れっていったんじゃないでしょ。 あんたが、そこのボウヤが心配で、あと追っ かけるってダダこねたんじゃないの」  誰もいなかった路地裏の入口に、影が映る。 からかうような声は、もちろん食堂で大男の 隣に座っていた美少女のものだ。 「船長ぉ」  一転、大男の声が情けなく聞こえて、ディ ーは吹き出しそうになった。 「ま、契約は契約だしね。必要経費もないし、 精算は後でいいわ」  焼けた肌色の少女の、はつかねずみ色の髪 がフワリと風に舞う。 「間違いなく大学までお届けするわ、ディー ・クロウ。なまものだから、時間はかけない。 あたしは、リスプ・ライド。このでかい男は ドリー・ドーン。今回は契約書は作らないけ ど、あたしたちはこの仕事に責任を負う」  このときから無事大学に届けられるまで、 ディーは荷物扱いとなった。  大学では三番目のディー・クロウも偽物で、 シーサにため息をつかせていた。 「ああいう広告って、こんなに偽物が来るも のなんですか?」  訊かれたカリネは、自分も詳しくはないが といいつつも首を横に振った。 「シーサ博士が有名だからでしょうね」  良くも悪くも、というところだろう。  以前ならシーサがこんな広告を出したって 見向きもされなかったかもしれないが、今は 世間の注目を浴びる立場であるからと。また、 注目を浴びたがゆえに、シーサの天然ぶりも 噂になっていたのをカリネは知っている。  シーサなら騙すのなんかチョロイと思われ たのだろうということも、カリネには見当が ついていたが、それはシーサにいわなかった。 「うーん、そろそろ新聞社に明日の新聞に載 せる広告の依頼を出してこないといけません かね〜……」  事務員との戦いは、今日一日とシーサ側が 粘って、お互いそこで妥協となった。 「僕、行ってきます」  そういってカリネが研究室の扉を開けると、 廊下を若い事務員がこちらに歩いてくるとこ ろだった。 「シーサ博士に、また来ましたよって伝えて ください」  それだけカリネにいって、忙しそうに事務 員は行ってしまう。  仕方がないので、カリネは研究室の奥に舞 い戻った。 「そうですか。じゃあ、下まで一緒に行きま しょう」  よっこらしょ、と立ち上がって、シーサも 研究室を出る。門に程近い事務室の前までは、 カリネと肩を並べて歩いていった。 「……博士!」  事務室の前が見える場所まで来たところで、 シーサには聞き覚えのある声がした。 「ディー君!」  お互いに散々遠回りをしたことは頭の中か らすっぽ抜け、目の前に目的の相手が現れた ことへの喜びに飛び上がる。 「よっしゃ、これで契約完了、だな」  ドリーがディーの背後でいった。 「すみません、彼を送ってきていただいたん でしょうか。今、礼金を取ってきますので」 「博士! いいんだよ……いいんだよな?」  シーサが金を持ってこなかったことを思い 出して、慌てて戻ろうとする。  それをディーは引き留めた。それから、ド リーとリスプに、確認する。 「俺との契約だったんだから、博士が礼金を 払う必要はないんだろ?」 「くれるっていうならもらっておくけど、別 に必要はないわね」  リスプはウインクして、ディーの前に出た。 「じゃ、精算ね。あんたの有り金、出してご らん」 「ディー君……」  心配そうにシーサが見る中で、ディーは財 布にしている小袋の口を開けて、リスプの前 に出した。 「これが全財産だよ。これ以上だったら、残 りは出世払いにしといてくれよ」  必ず返すから、とディーはいったが。 「軽々しくいうもんじゃないわ、そんなこと。 その若さで借金こしらえると、後が辛いわよ」  リスプは笑いながら、小袋の中から銀貨を 一枚取り上げた。多分、袋の中ではそれが一 番高額の貨幣だった。 「ここまで、大した距離じゃなかったしね。 せいぜい今夜の飲み代ってとこでしょ」  それであっさり、じゃあね、とリスプは背 を向けた。付き従うようにドリーも後に続く。 「あばよ、ボウヤ」  ドリーは最後に、もう一度振り返った。 「ディー君……アルグから、ここまで、大変 だったでしょう」  貿易商たちが立ち去ってから、改めてシー サはディーに声をかけた。 「う〜ん……世界は広かったな」  張りつめてたものが緩んで力が抜けたよう に、ディーは壁に背中を預ける。 「とりあえず、私の研究室のほうへ……散ら かってますけど。それとも、カフェかなにか で休憩してからのほうがいいですか」  カフェで休憩、をディーは選んだ。また腹 が減ってきていたことに、脱力して気がつい たので。  そのあとで案内された研究室の中の、散ら かっているどころではない混沌ぶりに度肝を 抜かれるのを経て、やっとディーとシーサは 本題に入ることになる。  ちなみにカリネはこのとき新聞社に取り下 げ広告を依頼しに行くのをすっかり忘れて、 翌日にも更に二名の偽ディー・クロウが事務 員に叩き出されるという被害を出すことにな った。 ●act.5  入江には帆船が颯爽と並び、帆を広げ風を 受ける瞬間を今か今かと待っている。  ハンナにとって初めての海は限りなく透き 通っていて、その底までの距離を誤認してし まいそうなほどだった。  入り江に長く突出した桟橋から覗き込んだ 海の底は、手を伸ばしたら届きそうで。 「何か落としましたか?」  びくっ!と、不意討ちの声に、震え上がる ようにハンナの筋肉は痙攣した。絵にしたら、 擬音は『ぎくっ』だったかもしれない。  手を突っ込んで、ぱしゃぱしゃ水を掻き回 しているところを誰かに見られたのは、不覚 だった。周囲に乗船を待つ調査団のメンバー がいたことを、ハンナがはたと思い出したと きには、もう遅い。 「え……いいえ。水が綺麗だと思って……」  桟橋の上だからか、文字通り飛び上がった ような浮遊感にめまいを覚えながらも、ハン ナは笑ってごまかした。  そのまま、しゃがみこんだ状態から声の主 を見上げ、ハンナは更に絶望的な気分に襲わ れた。  本当はこの場には、おじさんおばさんの数 のほうが圧倒的に多いのだ。なのに、何もよ りによって一番の美形に些細な奇行に走って しまった瞬間を目撃されなくとも……と。 「そうですか。ずいぶん真剣な顔で手を伸ば していましたから、てっきり何か大切な物で も落としたのかと」  コーラルが誠実にそういっているのだろう と、ハンナはそう思っていたので、余計にい たたまれなかった。 「はあ……」  とうとう耐え切れなくなって、ハンナは顔 を伏せる。自分がどういう顔で水を触ってい たんだろうかと想像すると、更に顔が熱くな る。  海底に手が届くのではないかと思った、な どとは、ちょっと正直に白状する気にはなれ なかった。 「何もトラブルでなかったのでしたら、けっ こうですが……足元には十分注意をして、桟 橋の端には寄りすぎないように気をつけてく ださい。濡れていますから、足を滑らせます よ」  コーラルはハンナにそう注意して、自分は 大股で桟橋の先のほうに歩いていった。自分 でいったようには、足元に注意しているよう には見えなかった。  きっとコーラルは海の民なのであろう。  海と共に生きる民たちは水に足を取られる ようなヘマはしないのだろうと、ハンナがそ の長い足に見とれていると……コーラルと入 れ代わりに、サラエが桟橋の先から近づいて きた。 「なんて顔をしているの? あなたはシーサ 博士の代わりに見られているんだということ を、思い出しなさいな」  響かないように囁かれた言葉に、ハンナは 再度反省する。  言い訳をしてもいいなら、見られているこ とはずっと意識していた。緊張はしていた。  だが平原の都市に生まれたハンナには、こ れほど大量の水に接する機会はほとんどない。 たとえ事前に知識はあったとしても、実際に 見たなら、びっくりするなどと生やさしいレ ベルではない驚きだったのだ。  緊張も何も、すっかり吹っ飛んでしまうほ どに。まあでも……多分それも、コーラルに 見とれていた言い訳にはなるまいが。 「海は初めてだったわね」 「……うん」  ハンナにフォーパ市の代表たちがいるとこ ろで乗船の順番を待つように促して、サラエ は再度桟橋を先のほうへと向かってゆっくり 歩き出した。  ハンナも足元に気をつけながら桟橋を進む。  桟橋の先には、ボートが何隻か、いる。さ きほどから、調査団のメンバーを乗せて帆船 へ輸送しているボートだ。  順番を待つ者たちは、桟橋のそこかしこで 呼ばれるのを待っている。 「海底に手が届くと思ったんでしょう」 「そう! そういうものなの?」 「初めて見たときには、あたしもそう思った から」  そういうものか、と、もう一度、ハンナは 海を覗き込む。  サラエはまだ話を続けていた。 「血かしらね。あなた、さっき、最初にあた しが海を見たときと同じことしてたわ」  それを聞いたとき、ハンナの頭の中で、さ きほど自分のしていたことの顔の部分だけが サラエにすげ変わった。  普段なら想像しにくいその光景に、ハンナ はサラエの顔を見る。やっぱり親子は似るの だろうか、と。  それはそれで、ちょっと嬉しくなる。共犯 者を見つけた気分だ。 「へえ、そうなん……」  新しい体験には、驚きが尽きない。驚きは 寂しがり屋で、仲間を呼びたがるらしい。 「ハンナ!」  足元がほんの少しおろそかになった、その 時に、ハンナはさきほどのコーラルの忠告を 間を空けることなく実体験することになった。  ちなみに、ハンナの父の初めて海を見たと きと、母の初めては同時だったらしいが…… 「血かしらねぇ……」  父も海初体験で落ちたのだと母に聞いて、 こんなところは似たくなかったと、ハンナは 心から思ったものだった。 「今回の任務は、護衛が主だ」  時は少し戻って、出港前夜のことである。 「蒸気帆船が一隻、通常の中型帆船が二隻、 小型飛行船が一隻の構成となる。各船への乗 船名簿は、既に配布された通り。変更はない ……自分の配置がわからない者はいないな?」  コーラルは手元の全船名簿を指で弾いた。  コーラルは今、今回の任務に着いた者を可 能な限り一室に呼び集め、この話をしていた。  その夕方までには調査に参加すると名乗り を上げた各地の都市のすべてから、その港町 に代表が集まってきていた。それぞれに迎え に行ったパトリキオの報告も、すべて順当に 行なわれている。  ただ、出港にはさまざまな準備と手続きが 必要で、その顔ぶれは任務に着いたパトリキ オのすべてというには程遠かった。  コーラルの前に揃った顔が、いかにも若々 しいのは、そのためだけではないが。 「航海を予定している海域は、この季節は比 較的穏やかな気候だ。帰路はどうなるかわか らないが、季節風の関係で、行きはほぼ最短 の航海となるだろう」  コーラルはまず、航路の説明から始めた。  机に置かれた海図を、若いパトリキオたち が覗き込む。 「なお、ここ半年間の海賊の出没情報は手に 入らなかった。通常航路からは大きく外れて いるので、遭遇の確率は低いものと判断する」  海図の中に一点、しるしがつけられている。 そこが目的の場所らしいが、南洋のだいぶ真 ん中よりというような位置だった。 「近海の状況は遠浅だ。大陸からはかなり遠 く見えるが、この列島から、こう」  コーラルは大陸の南端から、しるしから見 て更に南に位置する島までを、指示棒でぐる りとだ円を描くように示した。 「ポイントは外れに位置しているので、行き すぎない限り問題はないが……天候不順など ではぐれて流された場合は、座礁を警戒して ほしい」  まだ少年のような若いパトリキオが、手を 上げて発言を求めた。 「近くに島はあるようですが、誰もいないの でしょうか」 「そのはずだ。最後にするつもりだった話だ が、長期化するなら、この島を拠点にするこ とになるだろう。……おそらくは長期化する ので、ポイント到着後、飛行船をここに降ろ す。飛行船には調査団のメンバーは乗船させ ないので、到着後、飛行船乗組員は速やかに 島の調査に当たるように」  そう無表情に淡々と指示を出してから、 「さて」  とコーラルはいった。そこまでの声と比べ て、短くても格段に感情がこもっていること が多くの者に聞き取れた。 「……このへんで、ぶっちゃけた話をしよう。 俺は、これは護衛の楽な任務だといわれてい た。同じように告げられた者、手を上げろ」  その場のほとんどが、黙って手を上げる。 「今のうちに、少々認識を改めておいてくれ。 まずこの任務は、長期化すると思われる。調 査団員の、見栄を張らずに正直に答えてくれ そうな学者に、いくらか聞いてみたんだが… …学者殿の本音は『すぐ終わるなんてとんで もない』だそうだ」  実際には「年単位の計画になる可能性が高 い」とまで、コーラルは聞き出したのだが… …それはまだ、目の前の若者たちに告げる気 にはならなかった。 「長期化することと、任務の難易度はかかわ りないと思います」 「そう考えていてくれると助かる」  若さは概ね前向きさとして作用して、そこ で不満の声は上がらなかった。 「我々の雇用者は調査団のメンバーに名を連 ねる学者殿ではなく、沿岸都市の各政府と連 邦都市の行政部の、連名だ。雇用主にとって は、調査団員として今回の航海に参加した学 者殿の頭脳は財産だということだ。それを守 るために、雇用主は資金を出し合い、我々を 雇うことにした。一同、その財産に損失を与 えないよう、十分に注意してくれたまえ」  しかしこのプロジェクトが何者に狙われて いるというわけではないので……この護衛任 務そのものはパトリキオ首脳部においては、 簡単な任務に分類されたらしい。  この調査団に参加しなかった都市は、概ね は「参加できなかった」のである。その理由 は様々であったが……  自分たちの都市だけで調査団を出し抜いて、 海に沈んだ空からの落下物を独り占めしよう と考え、あえて参加しなかった……と考えた ところはないという判断だった。  国家レベルでもそれ以外でも、各都市連合 の調査団に対抗しようと考える者は出ないで あろうという見込みだった。  これが、かの落下物が、明確にどこか特定 の国家に属する土地に落ちたものだったらば 話はだいぶ変わったのだろうが。それは誰の ものでもない場所に落ち、そして当初は我が ところだけでと各都市の指導者が思えるほど には情報は集中しなかった。  多くの者に分けて与えられたパズルのピー スを集めることでしか、その大きな絵の全容 は見えないと、そう考えるしかなかった。  ならば、現物を手に入れるのにより貢献し た者が、最後の分け前をより多く請求できる だろう。それは、実際に落下物を水から引き 上げることに貢献するということでもあるし、 少しでも多くのパズルのピースを集めること も貢献に繋がる可能性を秘めているといえる。  後者の考えが、パズルのピースを集める… …つまり、通信の解析にもいまだ力を入れさ せる方針を選ばせている。  さて、何にせよ、邪魔の入る可能性の低い 警備任務なら、簡単なものだと判断するのは 間違ってはいないだろう。なにしろ出発して しまえば海の上、深慮遠謀なくして手を出す ことができる環境ではなくなるのだから。  そして簡単な任務であると考えたので、若 い者を中心に選抜したことは疑いえない。  責任者にコーラルのような、まだ中年には 及ばない年齢の者が抜擢されたことからも、 それはわかる。コーラルよりも経験を積んだ ベテランを多く含んだ構成にするつもりであ れば、もっと違った配置になったはずだった。 「……外部だけを警戒すればよいというわけ ではないので、心してくれ。今回の計画の発 端となったことにも由来するが、『先を越さ れる』ことに過敏に反応する方もおられる」  だが、本当はそういったベテランがこの任 務には必要だったのではないかと、通常の作 戦だと中堅どころぐらいに位置する今回の責 任者たちは考えている。  外からちょっかいを出す都市はなくとも、 調査団内部での競争が発生することは、十分 見込まれているからだ。それが都市上層部の 指示ではなくとも。 「乗組員一同、調査団員の言動と、他から外 れた行動には、それとなく注意を払っていて もらいたい」  ……ケンカの仲裁は、間違いなく先達のほ うが得意だろうと思われるわけだった。 「学者殿の多くは我々よりも長く生きておら れるので、致命的なトラブルに発展した際に は、我々は仲裁役として、いささか力不足で あると思われることもあるだろう。我々も無 謬ではないので、そういう考えかたも否定は できない。つまり……我々には手に負えない 大ゲンカになる前に対処したいので、相手が 誰であれ、おかしいと思ったら何をしている のかそれとなく確認して、報告してほしい」  それが都市ぐるみの考えであれば、このプ ロジェクトそのものから外れてもらうことに なるかもしれないし、個の暴走だとしても、 相応の対処はしなくてはならない……被害者 として、他都市が騒ぎ始めると収集がつかな くなる。その前に。 「質問はあるか?」  若いパトリキオたちは隣同士でいくらか目 配せしていたが、突っ込んだ質問などは、す ぐには出ないようだった。 「では、解散。各自、持ち場に戻ってくれ」  コーラルは待つことなく、そう指示した。  そういった指示が出ていたなどということ は、ハンナには知る由もなかった。  桟橋での子どものような行動にしても、海 に慣れた者から見たら理解しにくいもの。ま た、概ね奇行というものは、良くも悪くも拡 大解釈される傾向にある。  しかもハンナは、元々事実上「シーサ博士 の代わり」という看板を背負っているような もので、注目を集める身だったのだから余計 にだろう。  他都市の学者の中には、ハンナのドジっぷ りを笑った者もいたし、回りを油断させるた めにわざとしているのではないかと穿った見 方をする者もいた。  ハンナたちフォーパ市からの参加者は、蒸 気帆船に乗り込んだ。  乗ってすぐ着替えをして、潮に濡れた服を 洗って、船室の中を整理して……ハンナがや っと落ち着きを取り戻して甲板に出たときに は、陸は遠ざかりつつあった。  それを眺めて、ため息をつく。 「もう、大丈夫ですか?」  遠ざかる陸を見ていたハンナに、そう声が かけられた。  ハンナは声の主のほうに振り返って、切な くなる。  ここに至る状況がもっと平穏なら、その切 なさにも別の理由を求めることができたかも しれなかったが……今は、恥ずかしさでそれ どころではない。 「はい……」 「それはよかった。だが、船の上では、気を つけてください。ここから落ちたら、今度こ そただではすみません」  やんわりと説教を受けて、ハンナは小さく なった。  ハンナも二度とあんなことは、と思う。  海が初めてであると同時に、泳いだことも なかったハンナには、海に落ちて溺れかけた ショックは大きい。  もう一度ハンナが「はい」と答えると、コ ーラルは会釈をして船尾の方へ歩いていった ので……ハンナも視線をまた、もう小さくな った陸に戻した。 「そういえば、ディーには会わなかった…… わよね。これから先、海の上でなんて会うは ずもないし……」  父親の言葉を思い出して、ハンナは独り言 のようにつぶやいた。 「どういうことだったのかしら。お父さんた ら、どうして、あの子が海にいるなんて思っ たんだか……」  結局、父親のいうことのほとんどは理解で きなかった。難しいわけではないが、脈絡が ないし、突拍子もない。 「それにしても、本当はあの子、どこにいる のかしら?」  そう父親の不思議な頼み事について、ハン ナが物思いに耽っている頃…… 「伝わんの?」 「多分、大丈夫です」  フォーパ市の大学の、シーサの研究室に、 ディーはいた。  その目の前には、少女が一人、立っている。  どこかで見たような気がすると思い、先日 のローズガーデンの少女に似ていると思いな がら、ディーはすぐにその子のことを思い出 せなかった。 「この子のこと、忘れちゃいましたか?」  シーサにそういわれて、やっとディーは思 い出した。最初にシーサと共に見た、ローズ ガーデンの立体記録映像の少女であることを。  ディーはなぜすぐ思い出せなかったのか、 と考えて、それはすぐに気がついた。映像よ りも、幼く見えるからだと。映像の中では、 少女は理知的でおとなびて見えたからだ。  その少女……ヨシノは、今はぼんやりとし たあどけなさが、表情にも雰囲気にもにじみ 出ている。 「うーん……記憶がなくなっちゃったせいか もしれませんねぇ……」  そっとシーサにそれを訊ねると、シーサは ディーにそう囁きかえした。 「あそこから見つかったヒトのほとんどがそ うなんですが、眠る前のことを憶えていない んです。知識だけ残っていたり、断片的に憶 えていたり、様々なのですが……この子は、 記憶に残っていることが少ないようで」  だから、とシーサは続けた。 「見せてあげてください、君の記憶を」  断片的なヴィジョンであっても、何かきっ かけにはなるかもしれないから、と。  平原の民の感応力は、山の民や海の民より も強い傾向にある。意志だけではなく、集中 すれば、映像状態のイメージも相手に送るこ とが不可能ではない。  ディーにとっては、世界中で受信されたと いうメッセージの話を聞き、天から落ちてき た物の話を聞き、それがどこに落ちたのかが わかりさえすれば、もうシーサにさえ用はな かったのであるが……さすがにそこで、ハイ サヨナラというわけにはいかなかった。  シーサのほうもディーの持つ情報を貰わず に、送り出せるはずもない。  せめて話をしていけ、見たものを残してい け、とディーは思いも寄らぬほど強引な引き 留めにあった。  多分それは、軟禁といってもいいレベルだ ったと思われる。  とにかく世界中でおそらくディーだけが持 っていた情報を残していかなくては、ここを 出してもらえないとなれば、ディーに是非は ない。  そして、シーサと、望んだ学生たちに次々 とディーはそのヴィジョンを伝え……最後に 前に立ったのが、ヨシノだったということだ。  誰かが、気を利かせて呼び出したのだろう。  だが種が違ってもそれができるのか、ディ ーにはわからなかった。先に訊いた「伝わる のか」は、そういう疑問だった。  すべて伝え終わればディーもやっと解放さ れる約束になっていて、そのためならば、こ こまで何一つ躊躇うことはなかったけれど。  目の前にヨシノが立ったとき、そしてその 少女が誰だったのか思い出したとき、ディー は初めて自分の見たヴィジョンをありのまま に伝えることを躊躇った。  多感な女子学生の中には、今まで聞き取れ なかった中にメッセージの発信者である少女 の悲しみが隠れていたことにショックを受け ていた者もいたが……ディーはそれにも怯む ことはなかったのに。  それは、やっぱりヨシノがヤエに似ていた からだ。ヤエというのがあのメッセージの少 女の名であることは、ここでやっとわかった ことだが。 「シーサ博士……」 「できませんか?」  あの少女が泣いていたところを見せてもい いのだろうかと、それがディーのブレーキに なっている。  だがそんなディーの葛藤などは知らぬ気に、 ヨシノはあどけなくディーに向かって手を差 し伸べた。  それを拒むこともできなくて、ディーは結 局その手を握り返した。 『……ヤエが泣いてる』  ヨシノは表情を変えることなく、つぶやい た。 『帰ってきたのに、誰もいなかったから。誰 も……残ってなかったから……』  それははっきりと、ディーやシーサや学生 たちに伝わるほどはっきりとした、意思。 『……帰ってくるのに、時間がかかりすぎた のね。私たち、先に目覚めてしまってた……』  何をいっているのかと問いつめることも忘 れて、その場の多くは伝わってくる意思の意 味を考えていた。 『行かなくちゃ……ヤエが、呼んでる』  そこでヨシノはディーの手を離すと、迷わ ず背を向けて走り出そうとした。  しかし、すかさずシーサはその肩を優しく、 強く押さえた。そして、問いかける。 「ヨシノちゃん……何か思い出しましたか?」  問いかけるシーサを、驚いた顔でヨシノは 見上げた。 「ディー君が見せてくれた女の子は、ヨシノ ちゃんの知っている子だったんですか?」 「……知らない」  ヨシノは声で答えた。まだ片言の、つたな い発音のロムの言葉で。 「じゃ、どこにいくといいのかは、わかった んですか?」 「知らない。でも」  どうしてそれほど強く行かなくてはならな いと思ったのかも、そもそもどうして行かな くてはならないと思ったのかも、我に返ると ヨシノにはわからなかった。  改めて問われてみれば、行くべき場所も思 い出せない。いや、そもそも行くべき場所な ど、わかっていなかったのかもしれないが。 「あの子が、来てっていってたから」  それはもう、以前に受信記録から掘り起こ された部分の話だ。  それを聞いたときには、ヨシノはこれほど の反応はしなかった。  今ディーによって加えられたものは、その 映像。忘れてしまっていても、思い出せなく ても、憶えているのかもしれない。  自分に似た少女のことを。 「そうですか……」 「ちょっと待てよ、あの子が呼んでるのは俺 だろう?」  こんなことを主張するのはおとなげないか もしれないと、そう思いながらもやるせなさ に負けて、ディーは訴えた。  そう信じて、シーサならその場所がわかる かもしれないと、ここまで聞きに来たのだか ら。 「ええ……そうですね。そうだと思います」  シーサもうなずいた。  それでもなぜか、ディーの不安は晴れない。  そのはずだと思いながら、自分がこれをこ の少女に伝えるための、ただのメッセンジャ ーであったのではないかという気がして。 「……もう、俺、行ってもいいのか?」  その場から立ち去りたい衝動に強くかられ て、ディーはいった。  もう勤めを果たしたのなら行ってもいいの かと、問う。 「行くんですね……もう、たくさんの都市か ら代表を出しての調査団が、出発しています。 落ちた物……宇宙船、ですね、それを海から 引き上げるために」 「そんなの関係ない、誰が先に行ってたって」  自分が呼ばれたのだから自分が行かなくて はならないのだと……ディーは不安をねじ伏 せて、シーサに決意を伝えた。 「そうですか、それなら……」 「ヨシノも、連れていって!」  そのときシーサとディーの間に、ヨシノは 飛び込むように割り込んだ。  ほとんどディーに体当たりするように、す がりつく。 「連れていって!」 「お、おい」 「ヨシノも行く」  しっかりとディーの服を掴み、絶対に離さ ないという顔で、ヨシノはディーを見上げる。 「離せよ……」  その顔があまりに真剣で、ディーは言葉の 力が弱くなる。  振り払うことはできなかった。 「行く」 「行くって、おまえ、好きなところに行って もいいのか? 自由にどっかに行っちまって」  目覚めたばかりのヒトは記憶の混乱などの ために判断能力が低いとされて、それで複数 の大都市に保護されたのではなかったか。  生活の基盤を自ら持てるまでは都市の庇護 下にいるのだと、ディーは故郷のアルグでそ う聞いた。 「行くの」  会話にならないことに弱り果てて、ディー はシーサに視線を向けた。  目で助けを求めると、シーサはその考えを 読み取ったように説明をしてくれた。 「申請すれば……もうじき申請も要らなくな ると聞いていますが、今はまだ、都市の外に 行くには申請と許可が必要ですね」  やっぱり、という顔で、ディーはヨシノに 目を戻した。 「おまえの許可が出るまでなんて、待てねぇ よ。あの子が待ってるのは、わかってるだろ」 「行くの」  だがヨシノは涙を溜めて、まだそう訴える。 「行くのって……だから!」 「いっしょに連れていって」  説得はまったく効を奏さないようだ。  ディーの選択肢は四つ。その手を振り払っ て行くか、手を離してくれるまで待つか、行 くのを諦めるか……連れていくか。  待つのと行くのを諦めるのはディーの頭の 中にはなかったので、事実上の選択肢は二つ。 「……わかったよ、だから、離せ」  その手を振り払えないなら、残った選択肢 はたった一つだ。  ヨシノは、ほうっと笑った。  この商談が二名の間だけで済むのなら、こ れで成立といってもいいだろう。  だが。 「博士……いいんですか」 「多分、良くはないですけど。でもねぇ」  カリネの耳打ちに、シーサは状況を正しく 把握しているのかどうかわからないほど、お っとりと答えた。 「彼女が待っているのは、少なくとも調査団 に参加した方たちではないんですよね」  ここでの彼女というのは、ヤエのことだ。 「あのローズガーデンにいたはずの方々か… …ディー君か、まあ、どちらかなわけですよ」  彼らを止めますか? と問い返されてカリ ネは言葉に詰まった。あの泣く少女の像を、 カリネも見てしまっていたからだ。  あの嘆きがどの都市でも聞き取れなかった のは、受信機の違いだろうか。  ロムたちには雑音にしか聞こえなかったそ れは、ヒトの技術では切ない嘆きとして再生 されていた……それを知ってしまった後には、 カリネさえも行けるものならと思うほどの嘆 きだった。 「ディー君、約束ですから、もう行ってもか まいませんよ。でも、ここを出たら、多少の 覚悟はしていてください。ヨシノちゃんを連 れていくつもりなら」  穏やかであるからこそ、ディーはシーサの その言葉に息を飲んだ。 「君の安全を、私は保障してあげることがで きません」  ヨシノはローズガーデンの人々の中でも特 別視されているから。  そして宇宙船に関わることは、すべて機密 事項になっているから。  この場にいる者以外にはディーの存在は知 られていないが、ヨシノが解読に関わってき たことは記録に残ってしまっているから。  都市の利益を守るために、必ず追手はかか るだろう……と。 「……わかったよ」  選択肢はないのだと、ヨシノの手をディー は自ら取って、唇を噛み締めた。 ●act.6 「辞表はね、事務長さんの机の中に入れてき ました」 「黙って?」 「いったら、止められちゃうじゃありません か〜」  そういう問題じゃあないんじゃないかと、 ディーは思う。  だが、過ぎてしまったことをあれこれいっ ても仕方ないことも、わかってはいた。  ディーがこの後どうなるだろうかは、シー サが自分で説明したことだ。それをわかって いながら、ついてきたのだから。 「先に行ってる調査団には、ハンナも参加し てるっていってたじゃないか。なあ、大丈夫 なのか?」  だがそれでも、ディーはその波紋について 考えを巡らせることを止めたわけではなかっ た。シーサがついてくるということが、どの ような意味を持つのかと。  それはけして、誰にも何の影響も与えない ことではないはずだ。 「……どうでしょうねぇ。強い子ですから、 どうにかしてくれるといいんですが」 「やっぱ、戻れよ! あんた」  シーサ自身の口からそれを肯定するような 言葉が出ると、やはり我慢できなくなった。  今ならまだ、きっと間に合うと、ディーは プラットホームでシーサの肩を押す。 「わあ〜危ないですよ、ディー君。駅では気 をつけないと、汽車が来たときに線路の上に いるとペシャンコですよぅ〜」  ここは駅。今では世界でもわりあい珍しい 存在となった汽車が、いくつかの都市を結ん で走っている……そのフォーパ市の駅だ。  汽車はかつての大戦を生き残った文明の欠 片で、ここはフォーパ市では唯一の駅となる。  汽車は蒸気機関で、燃料は龍木と呼ばれる 爆発的な火力を持った木材である。ただし龍 木は貴重品で、この駅でも汽車は三日に一度 ほどしか通らない。  むろんディーにとっては汽車に乗ることも、 駅でそれを待つことも、初めての体験だった。  シーサの言葉に慌てて、ディーは逆にシー サを引き寄せた。  結局押されたり引かれたりして、とうとう バランスを崩して、シーサはディーを潰す形 でひっくり返った。 「あたた……大丈夫ですか、ディー君」 「ぃてー……」 「だいじょうぶ?」  ロムの中ではやはり目立つ丸い耳を帽子で すっかり覆い隠したヨシノが、ひっくり返っ たディーとシーサを覗き込む。 「……ああ」  尻尾の付け根の痛みに耐えながら、ディー はヨシノに答えた。 「びっくりした。だめですよ、駅で暴れちゃ」  それからディーは、説教をするシーサを軽 く睨んだ。  シーサはディーがどうしてそういう行動に 出たのか、すっかり忘れたかのようだ。 「さっきの話だけど、戻れよ、あんたは」  尻の埃を叩きながら、ディーは立ち上がる。 そして同じように立ち上がったシーサに、不 機嫌そうに、もう一度繰り返した。 「ハンナを困らせてまで、俺につきあうこと はないだろ」 「……もう手遅れですよ」  だがそういいながら、シーサは微笑む。 「君がヨシノちゃんを連れていくと決めた時 点で、私の責任がまったく追求されないとい うことはなくなったのです。たとえ今、私が 君についていかなくても、ヨシノちゃんがい なくなったことがわかれば、そして君たちが 姿を消したことがわかれば、その接点である 私は追求を受けるでしょう」  それは自分のせいだと正面からいわれたよ うに思って、ディーは息を飲んだ。 「……いわなけりゃいいだろ」  思わず、シーサの顔から目を逸らす。 「いいえ。そのとき、君たちを見逃したこと を、私は隠すつもりはありません」 「どうして!」 「それを隠したら、君から得たあのヴィジョ ンのことも公表できなくなっちゃうじゃあり ませんか」  本当に真剣に、そして不思議そうな顔で、 ディーの「どうして」にシーサは答えた。  ディーは更にどうしてが喉元まで出かかっ たが、それは押さえた。いっている意味は理 解できる気もしたからだ。ただ、その価値に ついてはまったく理解できない。  自分の保身よりも知識に重きを置くそれは、 いかなる価値観なのかと考え込む。 「……いえ、それだけではなく。他にも私た ちの接触を証言できる者はたくさんいます。 なにしろ、新聞広告だって出してますし…… 私が口を噤んだところで、どこかから漏れま すよねぇ」  ディーの混乱がわかったのか、もっと平易 な言葉と理屈でシーサは説明をし直した。 「だから、私が口を噤んでも無駄なのです。 ここに残っていれば、やはり私の責任は追求 されることになるのです」 「いや、だから……だからって、ついてくる ことないだろ」  ディーはまだ混乱していた。なんだか何か、 騙されているような気がしていた。 「残っていても責任は追求されるのですから、 ついていって責任を追求されることになって も、私にとっては同じです」 「そう……か?」  ディーは、それで理屈は合っているような 気が、少しだけする。だが、やっぱり騙され ているような気もする。 「辞表を置いてきたのは、そうしておけば大 学や都市の責任ではなく、私の責任にできる かもしれないからですね……親子の縁は切れ ませんから、ハンナには辛い思いをさせるか もしれませんが……これは私が君についてい ってもいかなくても、どちらでも、きっと変 わりません。私は同じように責任を負うのな らば、君とヨシノちゃんの行く末を見届けた いと思います。もしも君たちが途中で挫折し て、船までたどりつけなかったなら、私もハ ンナも責任の取り損だと思います!」  握り拳を振り上げて、シーサは熱く語った。  それは冷静な状態の元妻や娘が聞いたなら、 いくらでも反論できそうな穴だらけの理屈だ が……ディーはだんだん、シーサのいってい る理屈が正しいような気分が強くなってくる。 「そうか」 「だから、一緒に行って君たちがちゃんとた どりつけるように、協力したいのですよ」  ここでディーは、三度目の戻れはいえなく なっていた。何かまだ、心には引っかかって はいたけれど。 「……わかったよ」  降参、というようにディーは尻尾をだらん と下げた。 「よかった! わかっていただけたんですね」  シーサは子供のように喜んで跳ね回った。  これで自分の親よりも少し若いぐらいだと は、ディーにはとても見えなかった。  ヨシノもシーサの同行を喜ぶように……も しかしたらシーサにつられただけかもしれな いが……手を叩いて飛び跳ねている。  これでは、ディーは負けを認めざるをえな いだろう。 「そりゃ、あんたがいたほうが、場所はきっ とわかりやすいんだからさ。俺は海の知識は 全然ないし、座標とかいわれてもちんぷんか んぷんだし」 「ディー君、学校では座標はやりませんでし たか」  シーサはすっかり気をよくしたのか、教師 の顔でディーに訊ねる。 「聞いたこともないよ、田舎なんだから。都 市の学校とは違うんだぜ」  優秀ならもっと大きい町の寄宿学校にでも 行く。そしてもっと優秀なら、都市の大学校 に入る。連邦では大学で学問を納めることに 年齢は関係ないとされているが、田舎から都 市の大学に行くような子は、幼いころから勉 強熱心な子だ。  ディーは自分はそうではなかった、という。 「ちょっと意外ですねぇ、好奇心が強そうだ と思っていましたから」 「好奇心と勉強と、どう関係があるんだよ」  ははは、とシーサは笑った。  その笑いかたにディーはカチンときた反面、 当たり前のことを知らないという無知を披露 してしまったのではないかと不安にもなる。 「なんだよ!」 「いえいえ……すみません、笑ってしまって」  まだニコニコと、シーサはディーを見てい た。更に文句をいい募ろうかとディーが口を 開きかけたとき、ヨシノの声が彼らを呼んだ。 「ねえ! 汽車よ」  ディーが振り返ったときには、まだその姿 は見えなかった。  草原の中の田舎町で育ったディーの視力は、 かなりいいほうだ。だが。 「見えませんが……」  少なくとも、きっと普段から眼鏡をかけて いるシーサよりはずっと、ディーのほうが遠 くまで見えるだろう。  ディーに見えないのだから、シーサには見 えるまい。  だが、数十秒後にはディーにも地平線に煙 が流れているのがわかった。多分、あの煙を 吐いているのが汽車だと、身を乗り出す。 「ああ、危ないですよ。さっき、注意したで しょう〜」  そういうシーサに、ディーは乗り出した体 を押さえられる。 「ああ、ごめん……なあ、あの煙がそうだな。 ずいぶん目がいいんだな、おまえ」  体を引くと、自分よりも目がいいと感心し て、ディーはヨシノの顔をまじまじと見た。 「目がいい?」  ヨシノは大きな目を見開いて、小首を傾げ ている。まるで自覚はないようだった。 「ああ、俺は町でも、けっこう遠くまで見え るほうだったんだぜ。リットには負けたけど ……リット並みかな、おまえ。山の民は遠く まで見えるヤツが多いんだ」  少し興奮しているせいか、ヨシノには説明 なしにはわからないことも含めて、ディーは 饒舌に喋った。 「リットって?」  ヨシノは、また首を傾げる。  目覚めたその瞬間のことは憶えてはいない のだろうし、憶えていたとしてもその名を知 るはずもない。  ディーはまだ別れてからそれほど経っては いないのに、ずいぶん昔のことを思い出すよ うな気持ちで、リットの顔を思い浮かべた。 「……眠ってたおまえたちを、最初に見つけ たヤツさ。ここにも一緒に行こうって誘った けど、もうじきおとなになるための試練の旅 に挑戦しなくちゃいけないからっていって」 「山の民の通過儀礼ですね。もう彼は試練を 受けるんですか」  今度はシーサが目を見開いた。  リットは幼くも見えるから、シーサは驚い たようだった。 「年齢はあんまり関係ないんだってさ。何を するのかは教えてくれなかったけど、上手く いくといい……な」  山の民の試練は過酷で、それで命を落とす 者もいると聞いていたから……ディーは心か ら親友の生還を祈る。 「そうですね……ああ話していたら、もう汽 車がだいぶ近づいてきましたねぇ。ディー君、 ヨシノちゃん、ほら、もう少し下がってくだ さいね」  ディーはいわれた通りに一歩下がりながら も、目はまた汽車の厳つい姿に引かれていた。  初めて見る汽車は、黒くて大きく速かった。 「なあ、あれ、どうやって走ってるんだ?」 「蒸気機関の仕組みですか? 私も専門じゃ ないですから……」  ディーに袖を引かれたシーサは、困ったよ うに頭を掻いた。 「乗ってから、ゆっくり説明しましょう。ち ょっと思い出す時間をください」  風を起こして、汽車は駅に入ってきた。 「終点まで、時間はたっぷりありますから」  終点の、海のある都市まで。  南洋海上は凪いでいた。  それが落下した直後には荒れ濁っていたと いう海水も、今は落ち着いて澄み渡っている。 「いつまで、海の上にいるのかしら」 「あれを引っ張り上げるまで、よ」  青い海面を眺めてついたため息に、返事が あるとはハンナは思っていなかった。  だがその返事を返したのは母の声だったの で、ハンナは声のした位置を見上げて、ため 息の源である不安と不満を続けることにした。 「それは、一生ってこと?」  口にすると、欝々とした気分が増幅する。 「あなたがおばあちゃんになる頃には、あな た以外の参加者はみんな死んでるわ。あなた が調査団の中では一番若いもの。その頃まで には止めるか続けるかの決定権ぐらい、あな たの手に入っているでしょう。あなたは一生 のすべてを捧げなくてもすむと思うけれど」  母は真面目にいっているらしかったので、 ハンナは余計にため息が深くなった。 「それって、一生を捧げることと、どう違う のかしら……」  ここに来るまでは、きっと誰もこんなに困 難なことだとは思っていなかった。  そう思いながら、ハンナはもう一度甲板か ら海底に目をこらした。  横に並んで、サラエも水底を覗き込む。  相変わらず澄んだ海だ。  だが、入江ほど浅くはないので底の様子ま では、はっきりとは見えない。だがその影は、 海面にもはっきりと映っていた。 「何の道具もなく引き上げられっこないわ。 鉄の塊なんでしょ?」 「鉄ではないみたいよ……なんなのか、まだ わからないって、そちらの方面の方はいって たじゃないの。私たちの文明では、まだ作れ てないものだろうって」 「何でできてるかなんて、どうでもいいわ… …問題は重いってことよ」 「そうね。それをどうやって引き上げるか、 毎日知恵を出し合ってるわ、技術者の皆さん は」 「私……毎日、ケンカしてるように見えるん だけど」 「そうともいうわね」  また深いため息が、ハンナの口から漏れた。  海底に半ば刺さるような形で、宇宙船は沈 んでいる。そのおかげで、宇宙船のおそらく は船尾にあたる部分のてっぺんは、海上から でも見える。  おそらく作業は、この「刺さっている」状 態をなんとかするところから始めることにな るのだろう。  ただでさえ、それほど強力に牽引する方法 はないだろうに、半分埋まっていたのでは汽 船で引いたって動くとは思えない。  長い作業になるようだった。  そして、ハンナたちの出番は事実上船が引 き上げられてから、なのだ。  それまで飼い殺されるのだと思えば、ため 息も出ようというもので。 「……お母さん」 「お母さんは止めなさいっていったでしょう」 「……サラエ博士。私、けっこう目は良いほ うなんです」 「お父さんには似なかったわね……いいたい ことはわかるけど、いってごらんなさい」 「沈んでる船の上に、影が見えるわ」 「そう、やっぱりそう思う?」  母子は甲板の上で船の影の上に、ぐっと目 をこらした。 「何か、変わったことでもありましたか?」  そのとき、彼女たちの背後から声がかかっ た。 「ちょうど良かったわ、お訊ねしたいことが ありましたの」  サラエは毅然と、背後に立ったコーラルを 振り返った。  コーラルが各都市の代表たちの行動の一つ 一つに注意を払っていることは、サラエはも う気づいていたので、声がかけられたことに は疑問は抱かなかった。逆にただ海を覗いて いる者にさえ注意を払わなくてはならない身 に、わずかに同情さえ感じる。 「どなたか、今、潜ってらっしゃるの?」 「いいえ、そのような報告は受けてませんが」  そう、とサラエは微笑んだ。 「では、ちょっと見ていただきたいのだけど、 視力はよろしいほうかしら」 「普通程度には」  それは、コーラルの謙遜だった。普通より は視力はいいほうだ。  サラエの手招きを受けて、コーラルはまだ 海を見つめ続けるハンナの隣に立った。 「いかがかしら」  コーラルは、下を覗き込むなり、上着を脱 いだ。 「きゃっ!」  それを甲板に放り投げて、海に飛び込む。 「……若いっていいわね」 「お母さん、感心してる場合? 大丈夫なの、 なんの準備もなく飛び込んじゃって」  ハンナは潜っていったコーラルの姿を目で 追いながら、甲板から更に身を乗り出した。 これ以上は落ちてしまうというぐらい。 「どうかしら……それより、影が消えたわ。 ……どこに逃げたのかしらね」  サラエは目を細めて、もう一度海底に目を こらした。 「どうだ?」 「上にいるのは帆船ですね。ヒトは乗ってる みたいです。素で飛び込んできましたよ」 「本当にヒトか? 接触したのか?」 「我々が留守の間に、宇宙人が飛来して地球 に住み着いたとでも? ただまあ、地上がど ういうことになっているのかわからないんで、 今回は海の中でのファーストコンタクトは避 けました。話してきたほうが良かったですか ね?」 「海の中で喋れるんなら、ヒトじゃねーよ。 だがまあ、ありえないとはいえないぜ。なに しろ地球の上では計算以上に時間が流れた… …六十五万年も経ったみたいだからな。それ だけ時間があれば、なんだって起こるさ…… 俺たちの時間は、千年だったのにな」  マークは肩を竦めた。 「私たちは、そのほとんどは寝てたわけだか ら、千年っていってもね……結局千年孤独を 味わったのは、ヤエたちだけでしょう。これ ほどかかるとは、最初には思いませんでした からね」  リーは体についた海水をよく拭きながら、 マークの顔を見る。リーのボディには防水加 工が施されているが、リーの体は機械仕掛け なので、やはり水は気になった。  機械仕掛けなのはマークも同じではあるが。 「それだが、イツキとロッカとナナの遺体は 確認できた。やっぱり船を降ろしたのはヤエ 一人だったみたいだ」 「……もっと早く起こしてくれれば、少しは 私たちも力になれたでしょうに」  リーのその言葉には、悔しさが秘められて いる。  だが、マークは首を振った。 「ヤエは最優先コードを使って、船を降下さ せてる。先に起こされたところで、俺たちが 船と繋がってるヤエの手伝いができたわけじ ゃないさ。だいぶ荒っぽい降下をしたみたい だから、固定ポッドの中にいなかったら、俺 たちだって、きっとただじゃすまなかったぜ」 「ああ……それはそうですね。確かに。荒っ ぽい降ろしかたをしたのは、事実でしょう。 この船、海底に斜めに突き刺さってるんです」 「ほんとかよ」  ヒトと同じように、マークはぐっと眉間に しわを寄せた。  無重力の中でも普通に行動できるように設 計された船の中にいると、それはよくわから ないことだった。 「……時間が、なかったか。俺たちが手動で 降ろすよりは、まだ安全だったろうからな」  この船のすべてを、自分の意志で自分の体 と同じようにコントロールすることができる ヤエに誰もかなうはずはないのだ。 「さて、これからどうする? 無茶した分、 さすがに船も、あちこちガタがきてるぜ。長 いこと海底に沈んでちゃあ、何が起こるかわ かりゃしねェ。手動で外に出られることまで はわかったが……海底じゃな。俺たちみたい に機械仕掛けのボディでない奴は、今コール ドスリープから起こしても、ここから出られ ないだろう」  マークとリーは、額を突き合わせた。  二人は、おそらくヤエが最後の意志で目覚 めさせたヒトだった。  ヒトといっても機械の体である彼らを目覚 めさせるのは、多分生身の体で凍れる棺に眠 る人々を起こすよりは簡単だったのだろう。 その電源モードを待機から通常に戻すだけだ ったのだから。  ただ、他にもリーたちと同じ体の者はいる というのに、二人しかそれを戻すことができ なかったというところが、ヤエの限界を物語 ってもいた。  ヤエは、そこで力尽きたのだ。 「ヤエは……」 「まだ、完全に機能を停止したわけじゃない。 意識はないんだろうがな……ヤエの機能が完 全に止まれば、船も第二操縦室のアクセスを 受け付けるようになるだろう」 「ヤエの機能が完全に止まるのを、待つしか ないんでしょうか……ひどい話だ」  リーは眉間のしわをマークよりも深くして、 首を振った。どう否定したとして、現実が変 わることはないのだろうが。  ヤエは最後に自分の命令を最優先に処理す るコードを用い、船を地球に降下させたのだ。 それが一番早く間違いなく、船を操る方法だ ったからだろう。  ヤエが最後に使ったコードはこの船に対し て最も強い権力を持ったものだったので、そ れの効力が残る限りは他のどんな命令も、こ の船は受け付けない。  しかしヤエは、それを解除する前に意識を 失ってしまったのだと思われる。それが解除 されるには……ヤエ自身の命令か、ヤエの生 命体としての完全な沈黙が必要だった。 「あの子の死を、祈らなくちゃならないなん て」  たとえ人造の生命であろうとも……宇宙を 旅した仲間の死を願わなくてはならないこと を、リーはデータ化された心でも、苦悩した。 「誰もいない? 確かか?」  その時間、潜っている者は誰もいなかった。 影を見失って、水から上がってきたコーラル の元に届けられた報告は、そういったものだ った。 「……なら、あれは」 「エラ呼吸のできるヒトかもしれませんわね」  サラエの声が少し笑いを含んでいるのを、 コーラルは視線でわずかに咎める。 「ふざけているわけではありませんわ。私た ちの専攻は、古生物学。ヒトの研究が主です のよ。それが本当なら、新しい発見だわ」 「本当なら……ですね。ですが、外に出てこ られるぐらいなら、なぜ船を動かさないので しょう。あれは水中では動かないというもの ではないと……思いますが」 「壊れて動かないのかもしれませんわ」 「そうだとしても、なぜ出てきたのは一名だ けだったのでしょう」 「私たちには考え及ばぬ事情があるのかもし れませんわね……疑えば、きりがありません」  コーラルが疑っているのは、誰かが黙って 潜っていたことをだ。なら、コーラルが飛び 込んだら、逃げた理由も納得はいく。  サラエの言葉は、事態を荒立てないという 意思表示でもあったので、コーラルはここは サラエの意見に譲ることにした。 「……最後に一つだけお聞かせ願いたい」 「何かしら?」 「さきほどのご意見、本気でしょうか」  サラエは優雅に微笑んだ。 「ヒトにエラ? 絶対にないという保証も、 今はどこにもありませんから」 ●act.7  港は盛況だった。  商船が並び、また頻繁に出入りしていた。 ここは調査団の出ていった入江の港ではない。 フォーパ市から最も近い、港のある都市だ。 「すごい混雑だな」  ディーは広い海よりも、港とその前の市場 の賑わいに気をとられている。海も初めてだ が、交易を主体とする大型都市を訪れるのも 初めてだったからだ。 「大きな都市ですからねぇ。さあ、乗せてく れそうな船を捜しましょうか」  シーサはそういい、港に並ぶ船の掲げた旗 に目をこらした。  ここから先に行くには、船に乗るしかない のだ。だからここで、連れていってくれる船 を探すしかない。  だが、それは……困難を伴うだろう。情報 の早いトレーダーたちが、どんなに隠されて いたとしても各都市連合の調査団のことをま ったく知らないはずはなく、それに関わるこ とのメリットとデメリットを計算しないはず はない。  そしておそらく、それはデメリットのほう が大きいのだ。 「ヨシノちゃん、はぐれないように気をつけ てくださいね。ディー君、手を繋いでいてあ げてくださいな」 「えっ」  キョロキョロしているヨシノが迷子になり そうだと思ったのか、シーサはディーにそう いった。  ディーは街中でそれは恥ずかしいのではな いかと思いながらも、今にもふらっとどこか に行ってしまいそうなヨシノの後ろ姿を見て ……恥ずかしいのは諦めるべきかとも思った。 「ほら……はぐれるなってさ」  背に腹は代えられまい。  ヨシノの手を取ると、ディーはその手を引 いて、まだ船を見ているシーサの横についた。 「……すぐ追っかけてくるかな」 「私たち、逃走のプロってわけじゃありませ んからねぇ。フォーパ市の偉い方が追うつも りになったら、この街まではすぐ追ってくる と思いますんで、できるだけ早く船に乗りた いんですが」  船に乗ると、事実上、海上で追いつくこと は困難になる。ただし、待ち伏せは受けるか もしれない、とシーサはいった。 「私たちが海に出て向かう場所は、すぐに見 当がつくでしょう。あとは偉い方たちが、先 行している調査団に私たちの動向を知らせる ほうがいいか、知らせないほうがいいか、ど う考えるか、ですね」  また、その報告よりも早くシーサたちがポ イントにたどり着けるか、遅くなるかによっ ても変わるだろう。  三名が立っていたのは市場の出口の端。そ こから外に出ると、大きな港だ。  そのとき、ヨシノがディーとシーサをぐい っと押した。 「おい?」 「あれあれあれ……どうしましたか、ヨシノ ちゃん」  ヨシノはそのままグイグイ押して、市場に 出ている屋台の店の裏側にまでいく。抵抗す る気ならできたけれど、ヨシノにも何か考え があろうと、ディーもシーサもそのまま押さ れて表通りから引っ込んだ。  屋台の天幕の裏まで来ると、二名の手を引 いて、ヨシノはそこにしゃがみ込んだ。 「いたか?」 「いや」  そういう声が表から聞こえたのは、そのす ぐ後のことだった。  ヨシノは、一緒にしゃがみ込んだ連れに、 黙って笑いかけた。 「ありゃー……もう、追いつかれたんでしょ うかねぇ」  小さな声で、シーサは独り言のようにいっ た。 「俺たちを追っかけてる奴かどうかは……」  それに答え、そういいかけて、ディーはヨ シノの顔を見た。にこりと躊躇いなく微笑み 返すその顔を見ると、それを信じるべきなよ うな気がしてくる。 「……わかんねぇけど、もう追って来たと思 って動いたほうが間違いはないよな。でさ」  さらにここで声をひそめ、ディーはシーサ の腕をつついた。 「本当のところ、どうなんだ? 乗せてくれ そうな船って、本当にあるのか?」  ヤバイ橋を渡ってもいいといってくれる船 はどれだけあるものだろうかと、ディーは素 直に疑問を述べた。 「今見た限りでは、一隻は停泊してましたよ」  だが、ぶつけられたその疑問に、あっさり とシーサは答えた。あてもなく船を眺めてい たわけではなかったらしい。 「引き受けてくれるかどうかは、まだ交渉し てみないとわかりませんが……話が話だけに、 高額をふっかけられるかもしれませんしね」  金さえ払えば、どんな危険な場所にでも必 ず荷を送り届けてくれる運び屋たちがいるの だと、シーサは話し始める。  トレーダーが本業らしいが、本当にどこに でも荷を届けてくれるので、そちらのほうが 有名になってしまったらしいと。  その「らしい」ばかりの話を、ディーはど こかで聞いたことがあるような気がすると思 いながら聞いた。 「生物でも大丈夫だと……聞いたことがあり ます。私は使ったことがないし、あんまり海 とはご縁が深くないもので、正式な名前は知 りませんが……話を聞かせてくれた方は、武 装商船団と呼んでいました」 「武装……って、海賊じゃねえの、それ」 「一応、商船団、貿易船団らしいですよ」  船団といっても、必ずまとめて動いている というわけではないらしいが。船団に名を連 ねながら、一隻で行動している船も珍しくは ないらしい。今、港に一隻だけ停まっていた のも、おそらくそういう単独で動いている船 だろうと、シーサはいった。 「何かのついでに運んでもらうというわけに はいきません。私たちのために、船を出して もらうのですから……問題は、いくらかかる か、ですねぇ……」  シーサは自分の懐に手を当てた。ディーは シーサがいくら持参したのか知らなかったが、 シーサがそれほど金持ちだとは思っていなか った。以前にボロテントでキャンプしていた ところを考えれば、妥当な想像だろう。 「とにかく、行ってみましょう。聞いてみな いことには、始まりません」  追手は行ってしまったかと天幕の影から表 通りを覗いて、それから三名は立ち上がった。  こそこそと港に出て、シーサを先頭に不吉 な猫の旗印の船へと向かう。 「あれま、ボウヤったら、どうしたの?」  いざ交渉……に臨む前に、甲板の上からデ ィーに向かって声がかかった。 「あんた……この船、あんたのか?」  青い空を背景にした甲板を見上げると、は つかねずみ色の髪と赤い布が、海風になびい ている。  その美少女が確かに船長と呼ばれていたこ とを、ディーはそのとき思い出した。 「そーよ。この船に何かご用事?」  外見の年齢の割には妖艶な微笑みを浮かべ、 リスプは風に持っていかれる髪を押さえた。  フォーパ市よりは暖かいこの都市でなら、 リスプのその薄着も、ごく自然な風情だった。 「お知り合いですか……ああ、大学にディー 君を送ってきてくださった方だったんですね」 「あら」  リスプはディーの連れの顔に、このときや っと気がついたようだった。少し驚いたよう にシーサを見て、それから笑った。 「さっき、男女の子供を連れた学者風の男性 っていうのを探してるヤツらが来たわ」  リスプがおかしそうにいう。  だが、ディーたちには笑いごとではなかっ た。ディーはぎょっとして、あたりを見回す。 「もう行っちゃったけど……すぐ戻ってくる かもしれないわよ?」 「……あの、そこに上がってもいいですか? お願いがあるのです。私たちと、契約しては もらえませんか。私たちを運んでもらいたい のです」  もたもたしているわけにはいかないらしい、 とさすがのシーサも早口にそういった。 「契約ね……受けるかどうかはわからないけ ど、とりあえず話は聞いてあげるわ。上がっ てらっしゃいな。あたしも契約交渉に邪魔が 入るのは嫌いだしね」 「なーるほどねー。空から変なもんが落っこ ってきたってのは、船乗りの間じゃ有名な話 だし、どのへんの話かもわかるわ。実はその 調査団とやらがさ、そこに向かう前に、落ち たものを引き上げに行った船もいたのよ。や っぱ、お宝だったらおいしいじゃない?」  へーえ、とリスプはいった。 「そうなんですか〜。それで、何か引き上げ られたんでしょうか」 「そいつらが引き上げてたら、調査団は出発 しなかったでしょうよ。なんかね、全然お話 にならなかったらしいわ。だから、後続で挑 戦するヤツらも出なかったぐらいよ。船でど うにかなるようなもんじゃないらしいわ…… で、まあつまり、まずあんたたちは、その空 から落ちた船のところにまで行きたい、って ことなのよね」  船に乗り込んで、三名はやっとほっと息を ついた。正確には、息をついたのはシーサと ディーだけかもしれないが。  ヨシノは相変わらず、何を考えているのか よくわからないほどおっとりと、そして時々 キョロキョロしている。 「そうなんです。お引き受けいただけますで しょうか。そして、お代は如何程……」  武装商船団所属船ファンタスの甲板で、そ の交渉は行なわれていた。  シーサが財布を出そうとするのをリスプは 抑えて、話をまだ続ける。 「まあ、そう焦るんじゃないわ。ただ送り届 けるってだけじゃ、すまないでしょ? さっ きもいったけど、船で引き上げられるような 代物じゃあないそうよ。あんたたち、行って、 どうするの?」 「それは……まだわかりませんが……」 「それじゃ、ちょっとね……追われ者に手を 貸せば、あたしたちも同罪だわ」  リスプは帆柱に背を預けて、三名と向かい あっていた。リスプの表情は本当に嫌そうで はなかったので、これは交渉術の一環なのか もしれなかった。  リスプ以外の船員は、遠巻きに交渉の成り ゆきを見守っている。 「私たちが追われるのは、私たちがいくつか の秘密を知っているから……ですね。あとは、 都市間の駆け引きというものです。抜け駆け しないという約束をして、各都市はバランス を取っているわけですが……それは、相手方 にはなんら関係のない事情ですよね」  シーサはディーから得た情報を、包み隠さ ずリスプに話した。 「いいの? そんなことまで、あたしらに話 しちゃってさ」 「私は、あんまり隠すことに意義は感じませ んですがねぇ。マズイですか?」 「うーん……まあ、いいわ。それで?」 「倫理的には、この子たちを沈んだ船のとこ ろに連れて行くことは、正しいことだと思い ます。だって、待たれているのは彼らなので しょうから……呼ばれた者が行くのが、正し いと思いませんか? そして、呼ばれた者が 行ったなら、そうでない者が行ったときには なかった何かが起こるかもしれません」 「まあ、そりゃそうだわね。でも、倫理と見 込みだけじゃ、商売にはならないんだけど」  推測に対してリスクが高すぎるのではない か、とリスプは指摘した。 「それは、確かにそうかもしれませんが……」  そこで、リスプは船員の男から白い石板を 受け取って、木炭でさらさらと数字を書いた。 「これだと、危険料、ちょおっと、お高くな るわねー。荷はあんたたちだけなわけだから、 経費もかかるしね。覚悟はいーい?」  リスプはその石板を、他には見えないよう にシーサにだけ見せた。ぐっと具体的に値段 の交渉に入って、シーサはうなる。 「ああ〜やっぱり高いですか〜。そこを多少、 なんとかなりませんかねぇ〜。先行している 調査団の護衛についているのはパトリキオな ので、普通の船ではとても……」 「パトリキオ……そうか、そうだわね」  そこで、リスプは突然、目を輝かせた。 「こんだけ大規模な話なら、パトリキオが出 しゃばってきてて当然か……」  突然リスプの声が弾んだように聞こえるの も、気のせいではなさそうだ。  ディーにはその理由はわからなかったが、 遠巻きに耳をそばだてていた船員たちが、一 斉にひそひそ囁き合い始めたのにも、同時に 気がついた。 「……船長、例の病気が出たんじゃないか?」 「また、ただ働きか? 誰か止めろよ」 「てめえがいえよ、俺はイヤだぜ」 「俺だってヤだよ」  ちらほらディーにもシーサにも聞こえては 来るが、なんのことだかちっともわからない。 「……うん、場合によっては、ちょっと値を 引いてあげてもいいわ」  その間に、リスプのほうは何か考えついた ようだった。 「あたし、パトリキオには知り合いがけっこ ういるの。そのうちの誰かが護衛にいたら、 それに合わせて引いてあげるわ」  それはパトリキオに融通が利くという意味 なのかと、シーサは思った。  パトリキオの性質を考えれば、知り合いだ からといって便宜を図るようなことがありえ ないことは、すぐわかるはずだったが。 「そうですか……でも、護衛につかれたパト リキオの方で、私が名前のわかっているのは お一方だけなんです。責任者の方で、コーラ ルさんという方だけしか」 「コーラル? コーラル・ライド?」  リスプは、ひどく真剣な顔で身を乗り出し た。 「ええ、ご存じですか?」 「知ってるも何も……そう。兄貴が責任者だ ってわけね」  その次にリスプが浮かべた笑みは、シーサ が息を飲むほど迫力があった。 「お兄さん?」 「……錨を上げなっ!」  もうシーサの問いには答えることなく、リ スプは声を張り上げた。  船員たちが、わっと甲板を走っていく。 「全帆っ!!」  あまりの豹変ぶりに、あっけに取られるシ ーサを置いて、リスプも船尾のほうへ大股に 歩いていく。  船員たちがあちこちに走っていくその中で、 ディーは見覚えのある大男に腕を掴まれた。 「てめ、わかってて、この船に来たんじゃね えだろな」 「何がだよ」  ドリーはもごもごと口の中で何事かつぶや いてから、意を決したようにいった。 「うちの船長はパトリキアに恨みがあってな」 「恨みなんかないわよ! デタラメ教えてる んじゃないよ、馬鹿」  がつっ、と薄い石板で、戻ってきたリスプ がドリーの後ろ頭をどついた。たとえ慣れて いたって痛いだろうという音だ。 「せ、船長……石板は勘弁っす……」 「あんたがおしゃべりだからでしょ。そうだ、 お客さん」  戻ってきたリスプは、シーサにその石板を 渡した。そのために戻ってきたらしい。 「もう港出ちゃったから、あれなんだけどさ」  気がつくと、確かに揺れが強くなっている。  あっという間だ、とディーはびっくりした。  それはシーサもで、離れていく岸を驚きの 表情で眺めていた。 「港に残してきた荷物って、なかった?」 「あー、私たち、荷物はこれだけなので」  三名が各々持っている鞄を、シーサは示し た。 「そりゃよかったわ。船出しちゃってから、 あんたたちのこと思い出したもんだからさぁ。 もう、戻るのは面倒臭いしね……あんたたち だって、急ぐんでしょ?」 「はあ、まあ……でも、いったいいきなり、 どうして……」 「おもしろそうなネタだから、ってことにし といて。だからお代は、その半額でいいわ」  石板に書かれた金額の半分ということのよ うで、シーサはほっと息をついた。 「それなら、なんとか……でも、いいんです か〜?」 「文句つけんなら、満額いただくわよ」  いえいえとんでもない、とシーサは慌てて 財布の中から、大きな金貨を何枚か出した。 それは、ディーなどには見たこともないよう な高額貨幣だ。 「先に船出しちゃったから後付けだけど、契 約書は作っておくから、今夜にでもサインし てちょうだい」 「わかりました。ありがとうございます」 「お礼は、着いた後でね」  リスプは投げキッスで、シーサの礼に返す。 「必ず、お届けしてみせるわ……この旗の元 では何者も恐れない、何者にも邪魔はさせな い。どんな手段を使っても、あたしたちは必 ず、約束は守る」  どんな手段を使っても、というくだりには、 妙に力が入っていた。 「だからなぁ、うちの船長は元はパトリキア なんだよ」 「元パトリキア?」  甲板の掃除は、何かの実を半分に割ったも ので擦るらしかった。  それが何の実なのかディーにはわからなか ったが、世の中には便利な実があるものだと 感心した。  その実を半分に割った断面は、細い枝を集 めたほうきのようになっている。それが自然 にできたものだというのは、びっくりだった。  リスプが元はパトリキアだったという話と、 同じぐらいに。 「パトリキアって、辞められるもんなのか?」 「簡単らしいぜ。辞めるっていえば、けっこ うあっさり辞めさせてくれるらしい」  そんなに辞めるヤツはいないみたいだけど なあ、と、ディーの隣で甲板を擦っていた船 員は続けた。 「パトリキアって、あれで国なんだろ? 辞 められるもんだったのか」  パトリキアについてはディーだって知って いる。実際に見たことはないので、その知識 が正しいという保証はなかったが。 「色々あるんじゃねぇの? 辞めたいヤツも 出るだろ、生まれながらに傭兵ってんじゃあ よぅ」  船員はわかったようにいうので、そんなも んかな、とディーは納得しかけた。 「でもまあ、だから強ぇよ。うちの姐さんは」  リスプがあの歳で一隻の船長におさまった のには、なにやら武勇伝があるようだったが。 「無駄口叩いてんじゃねぇぞ」  しかし大男の影が甲板に映ると、船員はう ひぃと震え上がって口を噤んでしまった。  仕方ないので、ディーは甲板掃除をいつま で続ければいいのかと、ドリーに訊いた。 「適当に綺麗になるまでな。おめぇら運ぶの は、ほんとに赤字な値段なんだからよ。そん ぐらい働けや」  ディーはむぅとうなって、手は動かしなが らもドリーをもう一度見上げる。 「なあ、あんたの船長は元パトリキアだから、 パトリキアに恨みがあるのか?」  今度はドリーがむぅとうなる番だった。 「余計な詮索してんじゃねぇよ」 「あんたがいったんじゃんか、恨みがあるっ てさ。中途半端で気になるよ」  座り込んで、がしがし木の実で甲板の床板 を擦りながら、ディーは視線を逆光のドリー の影と床と行ったり来たりさせた。  逆光でドリーの表情は窺えない。 「……敵視してるとは思うぜ。パトリキアの 任務の邪魔になるんなら、赤字でも仕事を引 き受けるってクセはあるな」  ドリーは大男で、影も大きい。その影にす っぽり入る形で…… 「俺らとパトリキアの掟にゃ、似たようなと ころがあるんだが……それが」 「あ」  彼女は近づいてきた。  ざく! と、リスプは黙って、ドリーの後 ろ頭を、掃除用の木の実で殴った。細かく尖 った繊維のほうだ。 「せ……せんちょう……」  誰が自分にそんなことをできるかは、ドリ ーもわかっているようだ。振り返らないで、 そううめくようにいう。ドリーは耳を伏せて、 その場にしゃがみこんだ。  あれは刺さったんじゃないかなあ、とディ ーは自分の持っていた木の実の断面を見た。 「おしゃべりは長生きできないよ」  南洋の熱い風が、一気に冷え込むような声 だった。  リスプは腕を組んで、ドリーを見下ろして いる。 「いや、こ……こいつが聞くんで……」  矛先を振られて、ディーは身構えた。ディ ーにもリスプが客だからといって手加減する ような女性ではなかろうということは、今ま で見てきただけでも察することができた。 「そんなに気になるかい」 「……ちょっとだけ。なんでパトリキアを辞 めたんだい?」  だが、何かしゃべってくれるのではないか という好奇心の誘惑に負けて、ディーはつい 自分の好奇心の存在を肯定してしまった。い ってから、マズいことをいったかな、と内心 不安が膨らむ。 「……」 「いいたくなければいいよ。こんなとこで海 に放り出されても困るしさ」  あ、という顔をドリーが見せたのに、ディ ーは気がつかなかった。  一連の中でのディーの一番大きな失敗は、 今の台詞だったことがわかったのは、この直 後のことだ。 「誰が海に放り込むって? ボウヤ」  リスプの足が軽くディーの肩を押した、と 思った。そのときには、もうディーの視界は ぐるりと回転させられて、空を向いていた。  何が起こったのか理解できないままに後頭 部が甲板にぶつかる音を聞いて、ディーは痛 みに一瞬目を閉じた。すぐ目を開けたが、す ぐさまディーはそれを後悔した。 「礼儀知らずな荷物だね」  リスプはディーにのしかかるような形で、 上にいた。それでも重くは感じないのは、体 重をどこかで床に逃がしているからだろう。 起き上がることは簡単かもしれなかった。  だが、だからといってディーは動く気には なれなかった。目を開いたときには鼻先に、 錐のように尖ったナイフが突きつけられてい たからだ。 「あたしが契約を破るっていうんだね?」 「……そんなつもりじゃなかったんだ」  ディーは声を搾り出す。 「ああ、あんたのいうことは正しいかもしれ ないわ。今、あたしはものすごく、この契約 を破りたい。あんたをここで細切れにして海 に放り込めちまえたら、どんなにすっきりす るかしら……」  リスプは本気だと、ディーも思った。その 恍惚とした声が作り物であるはずはないと。 「……でもしない」  そこで、リスプはナイフを引いた。  ディーは心底ほっと息をつく。 「あんたたちを届けるのが契約だからね。あ たしたちはどんなことでも、一度契約したな ら、それは守る。どんな約束も守るわ。たと えどんな手を使っても……たとえパトリキア の船を沈めたって」  リスプの声は妙に楽しげに響いた。  本当にその機会が訪れるのを待っているの かもしれないと、ディーはちらりと思う。 「あんただって約束を守りにいくんでしょ?」 「ああ……一方的だけど、あれも約束のうち だよな」  ディーは転がったまま帽子の脱げた頭を掻 いて、それからリスプの体を避けるように上 半身を起こした。 「……パトリキアを辞めた理由だったわね」  起き上がると、今は膝立ちで立っているリ スプの胸のあたりに視線がきて、ディーはそ れはそれで困ることになったが。  おかまいなしに、リスプは続けた。 「今もパトリキアだった頃も、変わらない掟 が一つだけあるわ。それは約束を守ること。 でも、パトリキアの名の下では、時には守り きれない約束があることも事実よ……約束を 守るために邪魔になるんなら、パトリキアな んて名前は要らないわ」  まだ弄んでいたナイフを腰に戻して、リス プは立ち上がった。 「そういうことね、ボウヤ」  立ち去りかけて、リスプは何か思い出した ように振り返った。もしかしたら、最初はそ れをいうためにディーのところに来たのかも しれない。 「……ポイントには近くの島の裏から近づく けど、近づいたら発見されるのは時間の問題 よ。迷ったり考えたりしているヒマはないわ。 後で計画は立てるけど、すぐ夜陰に紛れて潜 ることになるのは変えられないわ。あたした ちは必ず送り届けてあげるけど、あんたが潜 れなかったらそれまでよ。その辺の桶を使っ て、息止める練習でもしときなさいな」  そう、甲板掃除に使っていた水桶を指す。  リスプが船内に入って見えなくなってから、 ディーは深く深く深呼吸した。 「……ちびるかと思ったぜ」 「俺が? ひでぇな」  帆柱の影に避難していた船員が、這い出て きてそういったので、ディーは顔をしかめた。  正直なところは、そういう気もしはしたが。 「いや、俺が」  だが船員は、そう自分の顔を指す。正直だ。  しかし、すると、さっき自分にされたのと 同じように、ドリーが木の実で船員の後頭部 をザクっと殴った。  船員はうおぅっとうめいて、頭を抱える。 「客より情けねぇことぬかしてんじゃねぇ!」  これが力関係というものかと、ディーは思 った。 ●act.8 「上陸? 島に?」 「小屋を建てたらしいわ」  変化のない海には、そろそろ飽き飽きだ。  そう思っていたのはハンナだけでもないら しく、船を降りて島に上陸しようという案に 賛成の者はけっこうな数いるようだった。 「でも……本格的に、長期戦ってことなのね」  わかってはいたけれど、また、ため息が出 る。  そんなハンナに、サラエは何度目かの同じ 台詞を繰り返した。 「望んで参加できなかった者は、多いわ。そ んなことをいっているのがわかったら、恨ま れるわよ」  だが、そういうときのサラエは少し笑って いるような気がする。きっと父親の顔を思い 出しながらいっているのだろうと、ハンナは 想像していた。 「中から誰か出てくることはないの?」 「ないみたいね……あれっきりというべきな のかしら。それとも、一度も……かしらね」  結局海中に見えた影は、誰のものかは確認 できなかった。調査団の誰も、それに該当す る者はいなかった。  予想通り幾らかの研究者の疑心暗鬼を招き、 ヒトエラ呼吸説が真面目に語り合われたりも して、それは調査団内部に奇妙な波紋を投げ かけていた。 「そういえば……」  ハンナはふと、ディーのことを思い出す。  ここにいるはずはない者。そして、ここに いるかもしれないと父親がいった者。 「……まさかね。あの子があんなに長いこと、 潜れっこないわ」  ハンナは自分の馬鹿々々しい考えを頭から 追い出すように、首を振った。 「どうだ」 「もっと、サンプルがないと……」  マークの問いに、リーは息をつく。  多くの問題の根源たる、宇宙船の中で。 「言語体系、まったく違いますね」  第二操縦室のメインシステムから切り放さ れたコンピューターを使っての、わずかに手 に入った「言葉」を解析する作業は難航して いた。  もとより、マークとリーは言語学者ではな い。素人が言葉をこねくり回しても、先が見 える見込みは薄かった。 「だがなあ、ジェスチャーで話が通じると思 うか?」 「そいつは文化がどれだけ共通しているか、 ですね。可能性がないとはいえないが……」  とんでもない勘違いを発生させる可能性も、 否めない。  言葉の壁はいつまでもコミュニケーション を阻むと、マークはうなった。  これが未だ、能動的な接触を躊躇わせてい るヒトの側の理由だ。  もしもロムの感応力がわかっていたなら、 冒険的な選択に出た可能性もあったが……そ れは彼らにはまだ知りえないことだった。 「……しかし、よく似てる」 「まあな。これだけ似てるんだ、文化の共通 点も多いだろうよ……しかし、これはどうい うことなんだかな。俺たちが宇宙に出た後、 地上に残った連中は、何をしたんだ?」  マークとリーの囲むテーブルの上には、六 分の一スケールのディーとヤエの姿があった。 縮小して再生されているそのレコードは、船 が降下を始める直前の時間の、操縦室のもの だった。  ロムの言葉は、ここから拾われたものだ。 船外の壁のすぐ向こうにまでは時折やっては くるが、海の中ではロムも喋れないからそれ 以上のサンプルは拾うことはできない。  それ以上を望むのならば、上に陣取ってい る帆船にマイクでも仕掛けてこなくてはなる まい。それも検討はされたが、まだ実行には 移されていなかった。 「姿勢制御機が水の中でも大丈夫なら、上ま で行って集音機を仕掛けてきますが……」  機械の体である二人は、水に浮かないのだ。 そのままでは船尾の出口から出て、その上に 立つのが限界である。 「壊れるかな。真空と水じゃ、条件が違う。 真空のほうが条件は厳しいが、防水が耐えら れるもんなのか……一発でおしゃかだった場 合、後が苦しくなるしな」  そういいながら、マークは立体映像のディ ーの耳をつついた。 「耳だよな」 「それより、尻尾があることのほうが驚きで すよ」  リーは映像の角度を変えて、自分のほうに ディーの背中を向けさせる。すると、尻尾が 立っている。 「ネズミの尻尾みたいですよね」 「ああ」 「……自然に進化したんでしょうか」  別の生物が進化を遂げたと思うには、それ はヒトに似すぎていて、しかしヒトのなれの 果てだと思うには、その耳と尻尾は不思議だ った。 「ネズミが猿と同じに進化した?」  マークはリーの顔を見る。  その視線にリーはわずかに目を細め、それ から手を組み合わせた。 「……本当に神が自らに似せてヒトを創りた もうたのでしたら、また同じものを創るかも しれませんよ」 「綺麗……」  それは一瞬、島流しの絶望も吹っ飛ぶ美し さだった。  準備や順番で、ハンナが島に上陸したのは、 夕暮れのことだ。  三日月型の島の珊瑚礁の砂浜が、きらきら していた。  浜の端には、バンガローのような小屋がい くつか既に建てられていた。 「一月ぐらいのバカンスだったら、申し分な いのにね」  もう大量の水にも見慣れて、はしゃぐこと はなくなったけれど。  ハンナは、あとで島の中を歩いてもいいの かどうか聞いてみようと決めて、宿となるは ずの小屋に向かって歩き出した。  いっしょに上陸用のボートを降りたサラエ は、もうだいぶ先に進んでしまっている。  夜闇が近づいていた。  ふと、木の生い茂る丘のほうをハンナは見 た。何か動いたような気がして。 「鳥ぐらいしかいないって、いってたのに」  起伏の緩い珊瑚礁の島は、大型の獣が生き られるような環境ではないのだろう。昆虫類 や鳥類、わずかに爬虫類が確認されただけだ といっていた。 「気のせい……ね」  こんな島には潜む場所もないのだから、と ハンナはもう一度歩き始めた。 「この島に、いったん潜む」  それは数日前の武装帆船ファンタスの上で の言葉だ。 「パトリキアに絶対に見つからないで、こい つを完遂する方法はない。あとは、どこまで そいつを遅らせられるかよ。いくら回り込ん でも、昼間じゃすぐ見つかる。奴らは目もい いからね。夜のうちに島に近づいて上陸、船 は夜明けまでに出来るだけ島から離れる。朝 までに肉眼で見える範囲以上に離れられなか ったとしても、とぼけて遠ざかるんだからね。 風向きには十分注意するんだよ」  珊瑚礁の遠浅の海だっていっても、間違っ ても座礁なんて恥を晒すんじゃないよ! と リスプはここで喝を入れた。 「どんぱちは、次の夜だ」  潜んでいた自分と荷物……つまりディーた ちは、島からボートで漕ぎ出す。距離がある のは否めないが、迷うことはないはずだとリ スプはいった。  それは、目的地の真上にパトリキアの船が 陣取っているからだ。灯は点しているだろう から、それが間違いのない目印になる。 「日が暮れる前には仕掛けを海に出して、そ れを引っ張ってくるのよ。月の昇る時間に注 意して、ファンタスの灯は消しておく。それ で、迎えにおいで。……ちゃちい仕掛けだか ら、多分すぐに気がつくだろうけど、ちょっ と気を取られてくれれば、それでいいわ。潜 っていられる時間はどーせ少ないんだし、足 下であたしたちがうろちょろしていることを 見落としてくれれば、いいんだからさ」  無事に自分たちを回収できればよし、でき なかったら諦めて逃げろと、リスプは船に残 る船員たちに潔く指示した。 「まあ、取っ捕まるのも、覚悟の上だわね?」  そうディーとシーサの顔を交互に見て、リ スプは確認した。  彼らがうなずいたのを見てから、ヨシノの ほうを見る。 「……どうなの、この子は」  口数の少なさも手伝って、ヨシノのぼんや りした風情は、事態を正確に理解しているか どうかを疑わせたようだった。外見的にも、 覚悟という言葉の似合わない子だ。 「わかっていますよ、本当は賢い子なんです。 それに、調査団の方々にとっても結局彼女は 貴重な人材となるでしょう。代わりのある、 私たちとは違います」  捕えられることになったとしても、ひどい 目に遭うことはないだろうとシーサはいった。 「そーゆー意味では、俺が一番危ねぇな」  代わりどころか、最初から価値もないのだ ろうとディーは愚痴を漏らす。 「そんなことはありませんよ……ただ、君の 価値を、誰もが理解できるわけではないかも しれませんが」  シーサの言葉はあまり慰めにはならなかっ たが、ディーもそれ以上にいい募りはしなか った。 「まあ、いいわ……必ず、連れていってはあ げる。ただし、一回こっきりだってことを忘 れないでね。たとえそれで何も起こらなかっ たとしても、失敗しても、二度目はないわよ。 おまえたちも、いいわね」  船員たちの力強い返答があって、リスプは 最後にこういい足した。 「……ああ、パトリキアのほうから手を出し てきたら、反撃していいからね」  それが一番、嬉しそうだった。  月は下弦。夕暮れ過ぎには、月はいない。 夜半近くなってから、昇ってくるはずだった。  散歩には暗すぎるか、とハンナは思ったが。  海岸を歩く誘惑に負けて、ランプを手に、 サラエにも内緒で外に出た。  満天の星が降ってくるような空だ。  船の上では空と海の区別がつかなくなって 恐ろしくもあった星空が、地に足が着いてい ると妙に安心して見れた。  この空からあの船は落ちてきたのかと眺め ていると、水音が聞こえた。  他に何も音がなければ、遠くまで些細な音 も届く。今は響きを邪魔するものは、さざな みだけだ。  ランプを掲げて、ハンナは走り寄った。 「お父さん……!?」  水音の源は、ハンナが近づいたときには、 もう海の上だった。かろうじて届いた明かり が、ハンナにも見覚えのある顔を二つ照らし た。 「ディー!? どうして!?」  ボートは、岸を離れていく。 「しまった〜……どうしてここで、ハンナに 見つかるんでしょうねぇ〜」  シーサとディーは、ボートの中で姿勢を低 くしていた。小さくなっていれば、ハンナの 記憶から消え失せるわけでもないのだが。  偶然とは恐ろしい、とシーサは頭を抱えて いる。偶然を嘆いているのは、きっとハンナ のほうもだろうが。  今、ぎこぎこボートを漕いでいるのはリス プである。もう一組オールがあるが、それは 働いていない。それらは、ディーとシーサの 手元にあるからだ。 「あんたたちも、とっとと漕ぎな! 見つか ったんだから、なお急ぐよ! すぐパトリキ アが動きだしちまう」 「すぐ動きますか?」 「動く。今の子、あんたの娘なの? 喋ると 思う?」 「思います。母親に似て、生真面目なんです」 「じゃあ、動く。夜だから、灯で信号が出せ る。誰が何をしてるかも、すぐ全部伝わるわ」  お縄になるのは覚悟しておくのね……と、 リスプはいった。そのあたりは瓢々としたも のだ。  リスプにとっての問題は、彼らを運び切れ ないかもしれないところにあるようだった。 「急ぐよ。もうそれしかない」 「海面を照らせ! 使えるだけ、灯を使え」  コーラルは、ロープの先にランプを繋げた ものを甲板からぶら下げて、海面を照らさせ た。近くに寄れば、影なりなんなり捕えられ るだろう。  調査団には参加していないはずのフォーパ 市の学者が島にいたと報告が入ると、すぐさ まこうして、捜索が開始された。  発見したのはシーサ博士の娘で、そして発 見されたのはシーサ博士だという報告にはコ ーラルも愕然としたが、それだからこそ嘘は あるまいと判断もした。  自費で追いかけてきたとしても、事前に聞 いたシーサの経歴からすると納得はできる。 かのローズガーデンの発掘も、大学の協力を 得られなくて自費によるものだったとコーラ ルは聞いていたので。  そして、それは事実だ。 「しかし自費で……? 船はどうしたんだ」  南洋のド真ん中に、突然現れられるはずは ない。運んできた船があるはずだった。  コーラルは海面の捜索を続ける指示を出し ながら、考えていた。  気づかれずに近づいた船があるはずだ。  パトリキオの指揮する船団にまったく気づ かれずに、ということは、ただの商船ではな いだろう。そして、ここにパトリキオがいる ことも知っているはずだ。  敵を知り、十分に警戒し、それを実践でき る技術があってこそ、それは成立する。 「飛行船を飛ばして、遠距離の警戒を強めて おくべきだったか」  痛みが走るほど、奥歯に力が入る。  そのとき…… 「船長! 灯が……!!」  コーラルが甲板の向こうの闇に沈んだ遠い 水平線に目をやると、複数の灯が点っていた。 「夜襲……?」  下弦の月が昇るまでには、今しばらくの間 がある。まだ夜闇は深い……  若いパトリキアたちは、それをやはりどこ かの沿岸の都市国家の夜襲であると判断した ようで、次々とコーラルに指示を求めてきた。 「いや……待て。ボートの捜索を続けろ。こ のタイミングはおかしい。この二つが、偶然 に同時に起こった可能性は低い。紛れ込んで いたのは、フォーパ市の博士だということは 判明しているんだ。フォーパ市は連邦の一都 市で、自力ではこれだけの船は調達できない」  他の都市国家がシーサに協力するか、シー サが他国家に協力したのだとしても、あまり にデメリットの大き過ぎる行為だ。とても、 正気の沙汰ではない。  混乱の中でも、命令に従ってボートの捜索 は続けられた。だが、集中力が欠けたことは 否めない。 「船長……! 報告が。ボートが発見されま したが……既に、誰も乗っていなかったそう です」 「水に入ったか……」  コーラルはもう一度、漁火のような灯を見 た。近づいているようで、近づいていないよ うな、その灯に目をこらす。 「あれは囮だ! ボートの捜索から目を逸ら すための……ボートを降ろせ! 泳ぎの得意 な者だけついてこい」  夜の海水浴は、安全とはいいがたい。  だが、その危険を侵しても、パトリキアを 出し抜いた者がいたのだ。  息が続かない。ディーはすぐにそう思った。  何度か潜り、何度か浮かび上がった。  浮かぶときには灯が直接照らさない場所を 選び、息を継いで、また潜る。  沈んだ船を求めて……  離れないようリスプの髪に巻いていた長い 赤い布を裂き、それで手を繋いで、四名は海 に入っていた。 「もう……私は……」  だが、先に音を上げそうになったのは、シ ーサだった。 「諦めるかい?」  乱れた息が落ち着くまで待つと、シーサは もう一度続ける意志を示した。  泳ぎが下手なのはシーサとディーで、リス プはもちろんだが、ヨシノも平然としていた。  ディーとシーサは船で移動している間に、 かなり荒っぽい方法で特訓を受けたのだが、 いかんせん時間が少なかったので泳ぎが完璧 とはいいがたい。まあ、それでもいきなり溺 れないだけ、マシになったほうではあろう。 「あんたたち、目開けてるかい?」  ディーは開けてるつもりではあったが、暗 くてよくわからないというのが正直なところ だった。 「多分、この真下に……」  ばしゃん、と、そのとき波が起こった。 「まず……降りてきやがった! 潜るよ、多 分これが最後だ!!」  ボートを降ろした揺れが、波紋になって広 がっている。 「いたぞ……!」  という声が、水に入る直前、ディーには聞 こえた気がした。  息が続かない。また、そう思った。  だが、今度こそ目的のものが目の前にある こともわかった。  暗い海の中でなお黒く、それは沈んでいた。  その中に、彼女がいるのだとして……どう やってその中に入るのだろうか。  その冷たい壁に手が触れたとき、突然わき あがったあまりの絶望感に、ディーは息を吐 いてしまった。 「誰か、壁に触れたな」  警報というには甘い音が、船内に響いた。 「この時間にですか? 船外では、活動時間 じゃないでしょう?」  自転周期から割り出した船外時間は、夜半 に近づきつつある。 「一応モニターを確認してみよう。でかい魚 かもしれないが」  センサー類はほぼ生きているようで、船体 に接触したもののデータは拾うことができた。  こういうサーチ作業ならば、十分に第二操 縦室で作業が可能だ。ヤエのいるはずの、第 一操縦室には未だに入れなかったが…… 「おい、見ろ! こいつは……!」  マークが興奮した声を上げ、モニターを指 し示した。 「来たんですね……ヤエの言葉が、通じてい たとは思えませんでしたが」  溺れかかったディーの姿を、センサーは捕 えていた。 「いや、でも、こいつ溺れてるぜ。助けてや らないと……!」  マークは第二操縦室から、走り出した。船 尾の非常ハッチにまでは遠く、間に合わない かもしれないかとは思ったが。  そのとき、船体がわずかに揺れた。 「な……?」  廊下で、驚いてマークは足を止めた。 「ヤエが目を覚ましたのか?」  第二操縦室に残っていたリーは、更に驚い ていた。目を細め、モニターに顔を近づける。 「あれは……いったい何号ですか?」  モニターの中ではハッチが開き、吐き出さ れる空気の代わりに水が流れ込む。  その中に吸い込まれるように、船の回りに いた者たちの姿も消え失せた。  中に吸い込まれた後、その小さな箱のよう な部屋にもう一度十分な空気が注入され、水 がすべて抜けていくまでには、リスプさえも 力尽きかけていた。  その一連の水の動きは、それほどに乱暴だ ったということだ。  シーサとディーに至っては、その時点では 意識はなかった。ヨシノが揺らすと、シーサ はすぐに目を覚ましたが…… 「……私がしよう、どきなさい」 「兄さんっ」  そこには一名だけ、繋がっていた四名以外 の者が紛れていた。  追いついたのは、一名だけだったというべ きか。巻き込まれて吸い込まれたのが一名だ けだったというべきか。  だが、コーラルがその場では一番元気だっ たといえるだろう。  ディーの胸を押して水を吐かせる。幸いに も大した量ではなかったようだった。  それから、心音と呼吸を確認する。呼吸も あったが、まだ浅かった。手順に沿った処置 で呼吸が通常に戻るとほどなく、ディーの意 識も戻ってきた。 「まだ動かないほうがいいぞ」  見知らぬ顔にそういわれて、ディーはぼん やりから混乱に意識の状態が移るまで、しば らくかかったように思う。どれだけ経ったの かわからない頃、あたりを見回した。  知っている顔を確認して、少しほっとする。 「しかし、やってくれたな……リスプ」  コーラルはディーの肩を押さえながら、妹 の顔を睨んでいた。 「こういう契約だったのよ」  しれっとリスプはいった。だが、コーラル の顔を正面から見ようとはしなかった。  こういう形で対面することは、計算のうち には入っていなかったのだろう。 「感謝してよね。おかげで中に入れたんじゃ ない。どうせ、何もできてなかったんでしょ」  それは当てずっぽうの当て擦りだったが、 真実だったので、コーラルの表情は更に険し くなる。 「こんな形で中に入っては……」  コーラルは、今は閉じられたハッチの扉の ほうを見た。だがその境目がどこにあるのか、 見当もつかない。 「侵入者だと思われてもしかたないぞ」  そういいながら、どうして彼らが近づいた 今だけはその扉が開いたのかにも、コーラル の想像は及んではいた。 「呼ばれたからよ」  リスプがそれを言葉にするまでもなく。 「この船が、この子を待ってたのよ。あたし はそれを、お届けに上がったというわけ」  荷を届ける、そのゆく道に立ちはだかる者 には何者にも容赦はしない……ロムのかつて の天敵を模した旗を掲げる船団は、それで勇 名を轟かせる。  その勇名の一端を担う妹に、コーラルは苦 い眼差しを向けた。 「ならば、その迎えが来てもいい頃だが」  そういやみともつかない発言をコーラルが した、そのとき……  彼らが気にしていたのとは異なる方向の、 扉が開いた。 『ようこそ……というんでしょうかね、こう いうときには』 『なんか、まぬけだな』  それが、宇宙より帰りきた人類とロムとの、 事実上のファーストコンタクトだった……の だろうか。  どの時点をそう呼ぶべきか、それは意見の 別れるところだろう。だが、このときが、そ の一つに数えられることは事実だ。  ヒトの言葉でも、ヤエのものは感応力のお かげで理解できる。だが、現れた二人の男性 の言葉は、ディーたちロムにはわからなかっ た。  その差がなんなのかを彼らが理解できるよ うになるのは、まだ先のこと。 『ヤエは!?』  ヨシノには彼らの言葉は問題なく通じ、そ してそれと同じ言葉で答えた。 『おっと……』  他が立ち上がるのがやっとという風情であ るのに対して、それは機敏なほどの動きで、 ヨシノは二人にぶつかるように問いかけた。 『六十五万年も、よく残っていてくれたもん だ……君は何号だ?』  男性の一人……マークの問いかけに、ヨシ ノは目に見えて戸惑っていた。  その答も、ヨシノの思い出せない記憶のど こかにはあるのだろうか。  その戸惑いに、マークとリーも戸惑ったよ うに視線を交わす。 『おい、違うんじゃないのか?』 『だとすると……本当にヤエが目を覚ました ということなんでしょうか』  二人が急いで操縦室に向かうべきかという 相談をしていることは、ヨシノにだけはわか った。 『ヤエのところに行くなら、私も連れていっ て!』  残り四名は、感応力で読み取れるヨシノの 発言だけから話の流れを察しなくてはならな かったが……  ディーにとっては、それで十分だった。ま だ床に転がっていた状態から、むりやりに起 き上がる。 「待てよ……俺も行く」  這いずってでもという気力だけで、ディー は前に進んだ。止めようとするコーラルの手 を可能な限りの力で振り払って、そのまま前 の二人へと伸ばす。 『彼も、連れていって。ヤエが呼んだから来 たのよ。会わせてあげて』  リーはヨシノの願いにうなずいて、伸ばさ れたディーの手を取った。そして、その体を 軽々抱き上げた。 「うわっ」 『この少年のことは俺たちも知ってる。どこ から来てくれたのかは知らないが、近くはな かったろう……よくたどり着いてくれたもん だ。もしヤエが、彼がここに来たから目を覚 ましたんなら、俺たちは彼に感謝しなくちゃ いけない』 「ま、待ってください」  ヨシノとディーを連れて入ってきたところ から出ていこうするリーとマークを、シーサ もよたよたと追って廊下に出ようとする。  ならば、リスプもコーラルも、その場に残 る理由はなかった。 ●act.9  ……ずいぶん長いこと、眠っていたような 気がした。  こんなに長い時間眠っていたのは、何十年 ぶりだったかしら。  ただもうまぶたを上げるのもおっくうで、 起き上がるなんて二度とできないと、それは もう、その前から知っていたわ。  指先一つ動きはしないのに、自分に何かで きるなんて、そんなことは思わなかった。  このまま闇に落ちて、二度と戻ってはこな いのだと、そう思ったのはいつのことだった かしら。  ほんの一瞬前のことだった……?  だけど。  もう一度……手足のはるか向こう側で、私 が動かされたとき。誰かが私に触れたとき。  そのとき、見えた。  ……が、きてくれたのが……  きっと、もう、だいじょうぶ。  ありがとう…… 「……ほら……来たぜ」  ヤエは一度だけ目を開いた。  覗き込んだディーのことを、見たかどうか はわからない。  それが最期だった。  それは船の最優先コードが解除される前だ ったか、後だったか。  ヨシノは操縦盤の前に立っていた。そのた めにここにやって来たかのように、迷いなく。 『……船体、浮上。姿勢自動制御』  船は、その命令を認識した。  宇宙船が海面に浮上したとき、当然ながら 近海上にいた数隻の帆船は軽度のパニックに 陥った。自分たちのボスを含む数名を飲み込 んだ乗物の動向に注目していなかったなら、 転覆した船も出たかもしれない。  長らくその真上に陣取っていた三隻の帆船 は、沈んでいた乗物が動き始めたことを知る と、『そこ』から全速で離脱した。混乱して いたことは否定できないが、大局的には、そ の判断は多分正しい。  少し離れていた一隻は、それを好機と、ま さにその浮上のポイントに向かって突っ込ん でいった。それは誰がどう見ても、混乱した 所業以外のなんであろうか。  だが、考えなしの行動ではなかった。勝算 の高いものとは、さすがに口が裂けてもいえ なかったが。 「あのでかぶつのぎりぎりまで寄れ!! 船長 を拾うんだ! うちの姉御は、こんなことで くたばるような女じゃあねぇぞ!」  その声は、ハッチを開けたリスプの耳にも 届いた。  海上が混乱しているからとヨシノに通訳さ せて、ハッチの開け方をリーたちから聞き出 し、入口に一番先に戻ったのはリスプだった。 当然、このまま最後まで付き合う気など毛頭 ないからだ。  下弦の月は、正面に昇っていた。 「よっしゃ……!」 「待てリスプ!」  寄ってきたファンタス号がすれすれまで近 づくのを見て、リスプはハッチの縁を蹴ろう とした。  それをコーラルの腕が押さえる。 「逃がすか! 今回は最後まで付き合っても らうぞ」 「うわっ」  リスプが作戦遂行中のコーラルの前に現れ たのは、実のところ何度目かになる。だが、 コーラルが始末書なり報告書なりを作成する 時点では、いつも名前だけの存在だった。 「あたしを巻き込まないでよっ」 「ここまで首を突っ込んでおいて何をいうっ」  落ちたら海か船まで真っ逆様なハッチの縁 で押したり引いたりのケンカができる、とい うだけで、そのバランス感覚は称えられるべ きだろうか。  下では波に押されて離れないように、ファ ンタス号が悪戦苦闘している。 「リスプさんっ」  その兄妹の争いに手を出したのは、シーサ だった。 「なっ、離せっ」 「行ってください、リスプさん」  シーサはコーラルの腰にしがみついて、中 に引っ張り込もうとした。 「ありがとうございました……!」  何がという余裕はない。だが、それで十分 なはずだ。 「……毎度ありっ!」  月を背に、リスプの髪がなびく。 「博士」  だがそのとき、シーサの後ろから少年がリ スプを追うように飛び出したのは、シーサに も予想外のことだった。 「ごめん……!」  それが、ディーの突然のシーサへの別れの 挨拶だった。 「なんであんた、来ちゃったわけ?」  甲板に落ちてきた少年はドリーに受けとめ られて、大怪我はしないですんだ。  リスプはもとより、こんなことで怪我など しない自信があってのアクロバットである。 「だって……荷物、置きっぱなしだし」  ディーは甲板に座り込んで、リスプを見上 げた。 「そんなもん、どこにだって届けてやったわ よ。あたしたちを誰だと思ってんのさ!」  下弦の月は更に高く昇って、やっぱりリス プの向こう側に見えた。それは、そろそろ夜 明けが近づいているということでもある。 「それに……ハンナがきっと怒ってるし」 「あー……博士の娘? 苦手なの?」 「……ちょっとだけ」  ハンナが聞いたら歯を剥いて怒るだろう。 「それにしたってね。あんた逃げちゃって、 あの博士、大丈夫なわけ?」  残してしまったシーサのことが気にならな いのか、と、リスプはことさらに意地悪にい った。 「そりゃ……うん。大丈夫かな……変なこと にならなけりゃいいけど」  本当にあっさり術中にはまってオロオロす るディーに呆れて、リスプは息をつく。 「まあ、あの船のヤツも言葉さえ通じれば証 言してくれるだろうからさ。いきなり犯罪者 扱いってこともないだろうけどね」  なんで自分がこんなフォローを口にしなく ちゃいけないんだと思いながら、リスプは潮 でべとべとの髪を掻き上げた。  あからさまにほっとした顔を見せ、ディー も自分の髪を掻き上げた。まだ半乾きの髪は 強い潮の匂いがする。 「でも、調査団出し抜いて恥をかかせたのは 事実だかんね。キツイこともあると思うわよ」 「うん……」  もう一度、ディーは俯く。 「で、ほんとのところ、どうして逃げたのよ」 「……恥ずかしかったから……」  ディーはさらに深く、俯いた。  誰に、というならば、それは自分に。  それは、怒りにも似ていた。 「……っ、間に、合わなかったから……」  リスプは天頂に近づいた月を見上げた。 「そうかい」  それを見ないのが礼儀であるかのように。 「しょうがないボウヤだわね……」  六十五万年の時を越え、人類は帰還した。  始まりの春の宵に……  わずかな痛みも伴いながら。