●小さな愚者
「……なに?」
後ろをついてくる小さな獣を、ロザリアは振り返った。
人語で問うても、返事があるわけではない。だが、ロザリアは言語については万能と言えるほどの力は失っている。ロザリアがロザリアになったとき、それは失われた能力だった。だから、問いかけても、それは通じていない。
でも、にゃあ、とロザリアと同じ色をした子猫は鳴いた。
ロザリアの言葉がわかったのか、ただロザリアが振り向いたのが嬉しかったのかはわからない。子猫の鳴いた意味は、ロザリアにもやっぱり通じない。
「私は貴方のお母さんじゃないのよ?」
そうは言っても。
足を止めたロザリアに気づいて、“暇人”カルロも振り返った。
「どうしたんだい、ロザリア」
そして、少し後ろにいたパートナーの尻尾の辺りに、まるでパートナーが産んだかのような子猫がいるのを発見する。
「ついてくるのよ!」
少し怒ったようにロザリアは言った。
「どこから?」
「さっきからよ。何処からかは、ちょっとわからないけど」
そう言って、来た道を振り返り。
「遠くはないと思うわ」
子猫の足は速くはない。二人もそう急いで歩いていたわけではなかったけれど、二人についてくるには子猫は一生懸命歩かなくてはならなくて、こんな小さな生物でもちょこちょことくっついてきたら気が付くだろう。実際に、ロザリアは気が付いたわけで。
「どうして?」
続いての問いに至って、ロザリアは目を細めた。
「知らないわ」
そう言って歩き出す。
すると、子猫もまた歩き出した。
頭悪いわね、というような顔でロザリアは子猫をちらりと見る。
パートナーのご機嫌を損ねたかなと思いながら、それほど気にもせず、カルロは続けた。
「迷子かな」
そして、ロザリアに並んでいた子猫を抱き上げる。
にゃー、とロザリアに助けを求めるように子猫は鳴いた。
複雑そうな顔でロザリアはそれを見上げ、再度立ち止まる。
「首輪してるね。飼い猫なんだ」
「どうする気なの?」
それを見上げつつ、ロザリアは首をかしげて見せた。
「どうせ付いてくるんなら、連れて行ってみよう」
「何処に?」
「お茶会。このまま寮に帰ったら、寮長になんか言われるだろうし」
そして……
●女帝の命令
「迷子さんなんですか?」
温いミルクを注いだ皿を置きながら、“春の魔女”織原 優真が訊ねた。囲むように、“炎華の奏者”グリンダと“黒い学生”ガッツが、その手元を覗き込んでいる。
子猫は与えられた皿のミルクを一心不乱に舐めはじめる。
カルロはテーブルを囲む椅子に座っていた。ロザリアは何も言わずに、その膝に乗る。
テーブルの周りには、可愛いものにもそう心は動かされない者が残っている。具体的には、優真のパートナーのシャルティールと、“陽気な隠者”ラザルスだ。実際のところは、シャルティールは本当に興味がないのだろうが、ラザルスは何を考えているのかわからない。
「多分ね」
カルロは経緯を簡単に説明して、子猫に気づいた時には周りには人がいなかったことを告げた。大通りの広場に近い場所で、普通の住宅もすぐ近くにはない。迷い出てきたにしても、少し離れたところからだろうとは思われた。
「でも、飼い猫さんですしね」
優真が子猫の首の首輪を見て、自分の首を傾げる。
首輪は、自然には付かないだろう。誰かがつけたのだ。
「いい首輪ね。悪戯でつけたようなものじゃなさそうだわ」
グリンダが首輪を値踏みして、やはり飼い主がいそうだと告げる。
「じゃあ、帰してさしあげないといけませんね……それまでは、ここでお預かりするとしても」
「そうね。でも、どうしたらいいのかしら?」
優真にしてみれば、迷子を預かって元の場所に帰してあげるのもいつものこと。世話している間になつかれて、そのまま居ついてしまうのもいつものことだが。
「それほど遠いところから、迷子になってきたわけじゃないだろうと思うけど?」
シャルティールにとっても、それはそうなのだろうが。優真とシャルティールの違いは、これ以上そういうものを優真のまわりに増やすのはどうかと思っているか否かだ。
「貼り紙でもしてみたら?」
「月並みだけど、いい案ね」
その案にすぐ、グリンダが賛成を表明した。
「飼い主がいるなら、探しているでしょう。捨てるなら、首輪は外すでしょうし」
子猫を預かっていると知らせれば、飼い主のほうから名乗り出てくるだろう。それで名乗り出て来ないようなら、探し当てても引き取ってもらえるとも思えない。そこまでは言わなかったが。
「じゃあ、貼り紙を作らないといけませんね」
にこにこと優真が続ける。
「子猫の絵があるといいですけど……どなたか、絵は描けましたっけ?」
そして、そこに返事はなかった。
絵が得意な者は、その場にはいなかったらしい。
沈黙の中を見回して、グリンダは目の前にいるガッツと、テーブルの上で熱心に何かの粉の入った小瓶を弄んでいるラザルスのところで、一度ずつ視線を留めた。
「じゃあ、ラザルスさんとガッツさん、お願いできるかしら」
そしてにっこり微笑んで、そう告げた。
「えっ!」
言われたほうは、何故と思わないではいられない。ラザルスは自分には関係ないだろうと思っていたし、ガッツはそもそも自分に災いが降りかかるとは考えない性質だ。
だが、目の前にいる金髪の可愛い少女が災いになりうることは、二人とも心得ていた。
逆らってはならない。
触らぬ神に祟りなし。
二人の胸中を駆け足で過ぎった言葉はその辺りだ。
「どうしたの?」
わかっているのかいないのか……いや、きっと何もかもわかってはいるのだろうと思われる微笑みを浮かべ、グリンダは二人に問う。
「い、いや、なんでもないのじゃ。喜んで描かせてもらおーかのー……」
「…………」
ガッツはまだ沈黙を守っていたが、返事がないものは肯定とするのか、グリンダは優真を振り返った。
「じゃあ、二人に描いてもらった貼り紙を貼ってきましょ、優真さん」
「ありがとうございます。描けるまで、しばらくかかりますよね?」
こちらは本当にわかっていない微笑みで、にこにこと訊ねる。
「あー……そうじゃのぅ。しばらくはかかると思うがの」
文字だけならそうでもないが、絵心のない者に絵を描かせようとしたなら、多少の時間は覚悟してもらわなくてはならないだろう。
「じゃ、私、この子のご飯になるもの持ってきますね」
そう言って、優真は部屋を出て行こうとする。
ミルクだけで済むほどには、子猫も小さくはなかった。生まれてから3ヶ月ほどだろうか。成猫と同じものは良くないかもしれないが、離乳は済んでいそうな頃合の大きさだった。
「僕も行くよ、優真」
そこでシャルティールも立ち上がって、優真について部屋を出て行った。自存型リエラとそのパートナーは一緒に行動することが決まりだが、シャルティールはそんな決まりがなくても優真について歩くだろう。そのくらい、この二人は仲が良い。
そしてミルクを飲み終えた子猫が、カルロの足元までやってきた。
子猫は、膝の上にいるロザリアの垂らした尻尾に飛びついて。ロザリアは煩そうに、尻尾を振る。それで余計にじゃれ始めて。むうと逆三角形の顔をしかめて、ロザリアはカルロの膝の上から飛び降りた。
それをまた追いかけて、じゃれつこうとする子猫をカルロは抱き上げた。カルロの手の中で、お腹がいっぱいになって元気になった子猫が暴れている。
「描くのかい?」
そして、ご指名を受けた二人のほうへと差し出した。
グリンダは後ろに立っている。退路はなかった。
後ろから、目の前に紙が差し出される。
「……わかったよ!」
ガッツは紙を掴み取った。
●隠者の企み
貼り紙は壁に貼ったり、木の幹にくくりつけたりした。
「これって、飼い主が見てわかるのかな」
貼るのを黙々と手伝っていたシャルティールが、ぼそりとつぶやく。
隣にいたカルロは、コメントを差し控えたが。
「無理じゃないかしら」
ロザリアは容赦なかった。
存在する時間の長さのせいなのか、リエラのほうがドライで辛辣な傾向があるのだろうか。
ガッツとラザルスの描いた猫の絵は、猫だとはわかるだろうと思われたが、本物に似ているかどうかは微妙なところだった。
「でも、一生懸命描いてくださったんですし」
優真がちょっと困ったような微笑みを浮かべて、フォローする。
そして、お茶会のサークル室では今もグリンダの監督の下、ガッツとラザルスの貼り紙描きは続けられている。
印刷や版画は更に技術が要るので、この程度のものならば人海戦術が正解だ。
「あ、あと、あちらにも貼りましょうか……あと何枚ありましたっけ」
優真が、少し大きな街路樹の幹を指した。
「もうあと、一枚しかないよ。優真」
シャルティールが答える。
「じゃあ、あそこに貼って、戻りましょう」
異論はなく、最後の一枚に糸を通して木の幹に巻くように貼り付けて。
それから3人と1匹は、子猫の待つサークル室へと戻ることにした。
優真たちが貼り紙を貼って回っている頃、サークル室では作業が続けられていた。グリンダが子猫の面倒を見ながら、その様子を見守っている。
「……なんだよ、やるか?」
目を離すとサボるからだ。特にガッツが、子猫と遊び出すからだ。
「あっ! いてっ、噛みやがった!」
「ほらほら、後にして」
「だって! こいつが……」
子猫に遊ばれているが、正解かもしれないが。
「……ちっ、後でおぼえてろよ」
舌打ちして子猫に毒づいても、子猫にそんなものは通用しない。
「あら、おぼえてないわよねー」
グリンダが追い討ちをかけるのが、更に腹が立ったが……
野生に近い物ほど、恐怖には敏いものだ。
ガッツは逆らってはならないものは心得ているつもりだった。
子猫に向かって、心の中で語りかける。
――おまえ、まだ子どもだからって、そんな無警戒じゃ、この先長生きできねぇぞ――
それを口に出す、勇気はなかった。
「さあ、手を動かしてね」
「わかっておるよ、しかしのぅ」
作業を促すグリンダに、ラザルスが控えめに訴える。
「少々、その子、元気が良すぎるじゃろう。子猫にじゃれられると、作業が進まんのじゃ」
「我慢して。他のところに連れていくわけにもいかないし」
「そうなんじゃがの。……わしに案があるのじゃが、どうじゃろうな」
そこで、にこにことラザルスはグリンダに笑顔を向けた。グリンダもやや胡散臭いとは思ったが。
「なに?」
「寮長からもらったマタタビの粉があるんじゃが。それで、多少おとなしくならんかの?」
「そうねえ……」
やってみてもいいんじゃない? と、少し考え込んだ後、グリンダは答えた。
ラザルスは笑顔で懐から小瓶を出す。
笑顔の裏には企みがあったけれど、それはグリンダにもわからなかった。
ラザルスは椅子から立ち上がり、小瓶の蓋を開ける。
そうして子猫に近づくように一歩踏み出して……
転んだ。
「あっ!」
正確には、転んだふりをした。
小瓶から粉が舞い散り、舞い上がる。
「やだっ!」
けほっ、とグリンダとガッツが咳き込んだ。
「なんだこれ……は、ははははっ!」
粉を吸わないように口を押さえていたラザルスは、それを確認したところでダッシュで部屋を飛び出すべく走り出した。
扉を開けて新しく安全な空気を確保したところで、少しだけ振り返る。
「それは笑い茸の粉も入っておるのじゃ。わしが吸い込んだときには、ものすごーくたいへんじゃった」
なので、他の者にも体験させたいというわけである。傍迷惑な話だ。
だが、ラザルスはタイミングと場所を見誤ったと言えただろうか。
「ええっ!」
と声がしたのは、部屋の外からだった。
ちょうど、優真たちが帰ってきたのだ。
「猫ちゃんは……」
中を覗き込もうとする優真にぎょっとしながら、ラザルスはその横をすり抜けるように逃げようとする。
もちろん、それを許さぬという者もいた。
シャルティールが、ラザルスの進路に足を伸ばした。
ロザリアがカルロの腕の中からジャンプして、ラザルスの頭を蹴った。
上と下と両方で重心を崩されて、今度こそ本当にラザルスは転んだ。顔から全身、べしゃりと打ち付ける。
そしてその後には起き上がる余裕さえも、ラザルスを狙った狩人たちは与えてはくれなかった。
すたっ、と、ロザリアはほとんど音も立てずにラザルスの頭の上に着地し。
シャルティールは、その背中を片足で踏みつけた。
それでもう、ラザルスは起き上がれない。
「覚悟はできてるんだろうね?」
冷たい声で、シャルティールはラザルスに問う。
「こんなとこでやったら、優真まで巻き込まれるだろう?」
「そうよね」
ロザリアがやはり冷たい声音で同意する。カルロには自分で危機を乗り越るよう教育を施しているが、ロザリアがカルロを守る立場ではあることも変わりはないのだ。
「死んだほうがマシだと思うことも、生きていればあるよね……覚悟ができているなら、問題はないけど」
玲瓏と、シャルティールは刑の執行を宣告するように告げた。
ラザルスは冷や汗が流れ落ちるのを感じたが、逃げられない。多分、リエラを出しても駄目だろうとも思う。
そして……
「ふ、ふふふふふ……! 待ってちょうだい、ほほほほ……私も、その覚悟を聞きたいわ、はは……!」
笑っているのに深淵の底から聞こえるような、そんな声が聞こえた。
もちろん、グリンダの声だ。
ちなみにラザルスが、この後一番ショックだったことは。
この最大の失敗は逃げ切れなかったことではなく、相手を見誤ったことだと、後に真剣にガッツに諭されたことだった。
●吊るされた男と子猫の帰宅
翌日、子猫には迎えがやってきた。
やっぱり飼い主は迷子の子猫を探していたのである。あの貼り紙でも、愛情があればわかったようだ。
笑い茸の影響は抜けていたが、子猫もまだ消耗しておとなしくなっていた……元々元気な子だったようで、飼い主がそれに首を傾げていたが、誰も正しい説明をすることはできなかった。
それを除けば、平和的に子猫の帰宅は見送られた。
「もう、迷子になっちゃ駄目ですよ」
優真が子猫を抱いて、飼い主に渡す。
にゃー、と子猫は鳴いて、返事をしたようだった。
その場にいたのは、他にガッツ、グリンダ、カルロ、ロザリア、シャルティール。
そこにいなかったラザルスは……
その頃、公園で吊るされていた。 |