■小さな願い■

●今へ至る階段
「優真!」
 “真白の闇姫”連理は、その茶色の緩い巻き毛の女性の後ろ姿を見つけてほっとした。
 彼女が……“春の魔女”織原優真が黙ってどこかに行くとは思っていないが、最近は時々不安になることもあった。たしかにどこかに行こうとしていることと、行きたいと思っていることは重々知っているからだ。
「何を慌ててるんだ」
 優真に追いついたところで、つまづきかけた連理を、シャルティールが片手で支えた。
 見た目よりずっと力があるのは、この少年がリエラだからだ。優真に生涯を従う、優真のリエラ。連理には、時に羨ましく思うこともある……永遠を約束された存在。羨ましいのは永遠を約束されていることではなく、優真にその永遠を捧げていることをだが。
「慌てているわけではない……ちょっと蹴つまづいただけじゃ!」
 連理はシャルティールの手をつれなくはらって、つんと顔を背けてから、付け足すようにつぶやく。
「……じゃが、支えてくれたのは、すまぬな。ありがとうじゃ」
 シャルティールは、ただ肩をすくめた。
 優真はそれを、にこにこと見ている。二人は仲が良いと信じているのだ。違うと言っても、揺るぎなくそう信じている。優真を困らせるつもりはないので、絶対に違うとは否定しきらないせいなのかもしれないが。
 連理が、優真とシャルティールと今のようになってから、そんなに長い時間は経っていない。
 だが、ここから先への願いは決まっている。
 ずっと一緒に。
 ずっとこのままで。
 ……もしかしたら叶わないかもしれないと、思うからこそ。
 優真と出会う前には、もう戻りたくはなかった。
 色々なものが足りなかった時代には。
 何が足りなかったのか、それさえもわからなかった時代には……
 振り返れば、足りないものがたくさんあったことも、今ならわかるけれど。

●遠き巫女の故郷
 その子が世に生を受けようとした時には、確かにその生は万人に祝福されていた。
 夫婦の間には長く子どもは恵まれず、このまま授からないかもしれないと言われていたのもある。
 何が間違っていたのかは、誰にもわからない。運命の悪戯というべきなのかもしれないが、その運命にも悪意があったわけではないだろう。その髪が白かったのも、その目が紫であったのも、おそらくは遠い昔に混ざった北の土地の血が彼女の代で蘇っただけのことだ。ごくごくわずかな可能性で、ごくごくわずかな巡りあわせで、そういうことは起こりうる。理を知るものならば、先祖がえりだと言うだろう。それ以上のものではない。
 その髪も目も……その力も。
 ただ、彼女にとって不幸であったことは。それが理であることを周囲が上手く理解できなかったことと……
 彼女と魂の呼び合った物の力が、先見であったことだろうか。
 それが如何に忌まれる力であるか、幼い彼女にはわからなかったことだろうか。
 幸も不幸も、慶事も凶事も、先見の力は区別をしない。悪しき未来を口にすると忌まれると、気付いたときには手遅れだったのだ。
 それが気をつけたなら回避できることと、福にも転ずとわかってもなお。
 染み付いた恐怖心は抜けなかった。
 神は畏れられる。
 異形も恐れられる。
 あるべきところでならばそれほどには奇妙ではないものも、見慣れぬ場所では奇異のものだ。
 後に“真白の闇姫”と二つ名を得る少女、幼き連理は家に禍福をもたらす神の巫女であった。そのリエラという存在に馴染みがない者にとっては、それは紛うことなき神なのだ。信心多き土地ならば、なおのことだろう。
 禍つ神も神。彼の国では神は無謬のものでなく、しかし畏れるべきもので、祟るもの。その力を代わりに振るう巫女もまた同じだ。
 そして誰かに福をもたらす神は、概ね誰かに厄をもたらす神でもあり。それが誰かに強く邪魔になるならば、討伐されることもある。
「……来るのじゃな」
 離れの棟の縁側に立って、連理は庭先に佇む漆黒の獣を見やった。
 その身の闇が、連理に先を見せてくれる。連理に授けられるの先見の目を快く思わない者の刺客の手から、直接に守ることもある。
 だが、この頃の連理は、それを思いのままに操ることは出来なかった。ただ為されるがままに、与えられるがままに、伝え見守るばかりだ。どんな恵みも、どんな災いも。
 この土地には、この具象神との付き合いかたを連理に教授できる者はいない。そもそも、同じく巫女の素養のある者さえ稀なのだから。
「もう、じき来るか……どうするかのう……」
 見た目の奇異さゆえに、人目を避けるように奥の離れに押し込められて。産んだ親すらも滅多には訪ねて来ない、冷たい座敷で。
 そこで見たくない未来も見、何度も命を狙われて、連理は幸せではなかった。
 せめて親が人並み程度に、連理を愛したなら。
 いや、愛はあった。あったけれども、それを示す方法を知らなかっただけなのかもしれない。だが示されない愛は、伝わらぬ愛は、ないものと同じ。
 連理は愛を知らぬ子どもだった。
 本来ならば親の愛を一身に受けて育まれる頃に、血の繋がらない世話役に義務的に育てられた。
「誰か!」
 連理は声を上げた。
 ぱたぱたと足音が近づいてくる。今の世話役がじきに、連理の前にひざまずくだろう。
 何から話すべきかと、連理は闇に見えた刺客のことを思い返した。遠からぬ未来に訪れる、招かれざる客のことを。
 いつものことだ。
「お呼びでしょうか――」
「……刺客が来るようじゃ。支度せい」
 冷たい目で、連理は世話役を見下ろした。
 まだ十になるやならずの少女の目の光は、どこまでも冴え冴えとしていた。

「レヴァンティアース? ……どこじゃ、それは」
 ある日の夕餉の刻。
 世話役は、父母の渡りを告げた。そして、その目的の一部も先に告げる。驚かぬように、反発を感じぬように、そういう配慮だったのかもしれない。
「レヴァンティアースとは、北方の大国でございます」
「何故、妾がそのような地に行かねばならぬのじゃ? ずいぶんと遠かろう」
「そ、そうでございますね……船で参られることになりましょう。姫様は、海を見たことはございませんね」
「海……そうじゃな、ないの。海を渡って行くのかの」
「陸路は、戦をしている土地がありますゆえ……」
「そもそも、何故じゃと言うに」
「……北の地には姫様と同じ、神の巫女が多くいらっしゃるのだそうですよ」
「妾と同じ……」
「巫師専門の学問所があるのだそうですよ」
「そんなにも……」
 自分と同じ力を持つ者が、学問所一つを作れるほどに数がいる。それは心躍る話であったはずだが……連理の気持ちは浮かなかった。愛薄い父母に、とうとう厄介払いされるのだと、そんな気持ちのほうが強かったからだ。
 膳が下げられて、程なく。
「おなりです」
 静かに、連理は父母の訪れを待った。
「連理」
 父母は語った。これ以上、連理がここにいては危ないと。刺客は今まで防げているが、先見は必ずもたらされる約束のものではない。必ず、連理を守れるとは限らないのだと。
 連理には、それは空々しい言い訳に聞こえたが……
 確かに、父母の言葉は真意だった。慣れぬゆえに恐れ、恐れゆえに示す方法を誤ったが、わが子に愛がなかったわけではない。わが子にどこであろうとも生きていて欲しいという願いが、遠き地へと連理を手放すことを選ばせたのだから。
「……妾は、如何様でも構わぬ。父上様と母上様のよろしいようになされるが良いのじゃ」
 それ以外の言葉が、連理の口から出ることはなかった。
 願うものは、何もなかったからだ。

●遥けき巫師の街
 その時まで連理は、一人が寂しいとも怖いとも思ったことはなかった。一人でいることは当たり前のことだったからだ。いや、その時にもまだ、寂しいと思ったわけではなかった。
 長い蒸気船の船旅と列車の旅を終えるまでは、世話役がついてきてくれた。アルメイスという人工的に作られた都市の入口にあたる駅に降り立った、そのときからが本当に一人だった。
 蒸気船の中で言葉の勉強はしてきたので、やや喋り方はおかしくても、言葉が通じないということもない。どんなことも、どうにでもなるつもりだった。
 だが。
 駅には人がたくさんいた。だが、連理を振り返る者はいなかった。
 雑踏の中に立った経験そのものが乏しい連理だが、そのわずかな経験ではこのようなことはなかった。放っておいても奇異の目が集まって、誰も彼もが振り返る。鬱陶しいほどの注目に一人になりたいと思うことはあっても、こんな風に取るに足らないもののように無視されることはなかった。だからこれほどまでに一人だと……思うこともなかった。
 だが、ここでは違う。ここでは連理の髪の色も目の色も、珍しいものではないのだ。思い返せば、船を降りて列車に乗るときから、そうだったかもしれないと思う。ただ、連理が気付かなかっただけで。
 連理は辺りを見回した。今更のように、どこへ行ったら良いのだろうと思う。学園の事務局とやらに行かねばならないということはわかっているが、それがいったい何処であるか。連理は自分がまったくこの場所のことを知らないのだと、そのときにようやく強く認識したのだった。
 そこでふつふつとわいてきたそれが怖いという感情であることに連理が気がついたのは、やっぱりずいぶん後になってからだった。
 迷いながらも、荷物を持って連理は歩き出した。人の流れから、出口と思われる場所に向かう。そこまで行って……やっぱり、連理は足を止めた。
 駅舎の外に一歩出ると、光が眩しかった。深い空の蒼は故郷のそれと変わらないが、灰色の風景とのコントラストが、より蒼を引き立てて目を突き刺した。連理は目を細めて……
 もう一度ちゃんと目を開けたとき、本当に異国に来たのだと改めて思い知った。
 なんとここは故郷と違うのだろうかと。故郷に慕情はないと思っていたが、本当に何もわからぬ異国に一人来たのだと思い知らされて……心細くなった。
 一歩踏み出し、やはり立ち止まる。
「こんなところで立ち止まるなよ!」
 どんっと背中に力が加わり、連理は躓きかけた。
「あっ」
「……大丈夫ですか?」
 連理が転びそうになったところを、細い手が支えた。その手に支えられて、体勢をたてなおしたときにはもう、連理を突き飛ばした少年の背中は人ごみに紛れている。
「子どもだから何でも許されると思ったら間違いだよ……って、もう届きゃしないか。顔は覚えた」
「シャル君……」
 連理を支えた女性が、苦笑いを浮かべる。その視線の先には、背中に翼のある少年がいた。
「なんだ、珍しいのか? 自存型が」
 自存型、なんて言葉は連理は聞いたこともなかった。その意味は、やはり後日に知ることとなって、今はただ少年の翼に見入る。珍しいものに目を惹かれる気持ちも、連理はここで知った。
「か……かたじけないのじゃ。その、ついでじゃが、学園の事務局とやらはどこじゃろうか。知っていたら、教えてくれぬかの」
「事務局ですか? あの、高台に見えている建物がそうですから……わかります?」
 茶色の髪の小柄な女性は、遠くに見えるレンガ造りの建物を指した。
「……うむ、わかる。すまぬな」
 改めて荷物を持ち直して、きちんと立つ。
「用がなかったら、おくっていって差し上げるのですけど」
「手間を取らせたのじゃ、そこまでしてもらわずとも大丈夫じゃ」
 連理は、首を振った。まだ一人でも平気だと思っていたからだ。
 そうですか、と女性は柔らかく微笑んだ。

 駅を降りたときには、雲一つない空だったような気がしていたが……
 連理が事務局を出たときには、今にも泣き出しそうな空が広がっていた。
 そこから、連理は寮へ行く予定だった。いや、行かなくては、今夜寝る場所にありつけない。
 今夜寝る場所を求めて足を動かすなんてこと自体が、連理には初めての経験だった。この街は、何もかもが故郷とは違う。故郷で連理は誰よりも特別で、そしてあれでも大切にされていたのだということを、今更ながらに知った気がした。この街では連理は当たり前すぎて、取るに足らないもののようだった。
 道順は事務局で聞いたのだが、やはりまだ言葉は万全ではなかったのかもしれなかった。行けども行けども、寮にはたどり着けなくて。
 やがて雨が降り出した。
 その雨の冷たさに、連理は酷く驚いた。
 雨は故郷でももちろん降ったが、これほどに、刺すように、冷たくはなかった。
 雨は冷たいものであると思い知らされながら、道を行き。
 道を行き。
 ――とうとう、行く道を見失っていることを悟った。
 ぐらりと、道の脇に座り込む。
 雨を避けるように軒に身を寄せたが、雨粒は避けきれない。
 体と共に、心も冷えていった。
 愛情はもとより足りなかったが、今はもう、存在する意義すらもないのだと。
 膝を抱えて、丸くなる。歩く意思が雨に打たれたところから流れ落ちていくような気がした。
「……大丈夫ですか?」
 うつむいて、下を向いて。
 そのまま消えてしまいたいと思う中。
 目の前に差し出されたのは、柔らかそうな手。
 顔を上げれば、傘を差し掛ける女性がいた。昼間、駅で助けてくれた女性だとも、すぐにわかる。
 片手で傘を、もう片手を連理に差し出して。自分は濡れている……この冷たい雨に打たれて。
 連理が立ち上がらなければ、ずっと彼女は雨に打たれ続けるのだと……そう理解できるまでに、どれぐらいの時間が必要だったかはわからない。だが、そうだと思ったとき、そうだと理解できたとき、ようやく連理は差し出された手を取った。
 自分が立ち上がらなければ、ずっと彼女は濡れ続けるのだと。
「転入生なんですよね? 迷子になっちゃったんでしょうか?」
 傘の中に連理を入れたとき、坂の上から少年が駆け下りてきた。
「優真! 濡れてるじゃないか」
 そうして、傘から食み出した彼女の肩にさしかける。
 ……優真は、微笑み返して答えた。
「シャル君、お買い物は後回しで、いったん寮に帰りましょう。多分、寮に行くのに道に迷ったんだと思うんです」
 そうしてそこから優真に連れられるままに、連理は下ってきた坂を登り始めた。自分がまったく違う道を来ていたのだとは、このすぐ後に知ることとなった。

「寮生なんだよね、その子」
「そうですね……」
 タオルで連理の髪を拭きながら、シャルティールの呆れたような声に優真が答えていた。
「じゃあ、寮長か寮監に預けてくれば……」
「荷物も服も濡れてしまってますから、着替えを貸してあげないと」
 シャルティールは、それ以上はもう言わなかった。優真がそうすることも、よくあることなのだとは、やっぱり後で連理は知った。よくあることで、シャルティール自身も同じような経緯を持っているから、強くは言えないのだと。
 濡れた服を脱がして、着替えを手渡された。連理には少しだけ大きめのシャツは、優真の物なのだろう。
 それを着ると。
「はい、暖かいミルクです」
 待っていたかのように、カップが差し出される。
 どうしてなのだろう、と、思う。
 どうして……
 結局、理由はわからなかった。
 それは多分、優真だからだという根本的な答に行き着くにも、しばらくかかった。
 理由はわからないままに、ただ刷り込まれたのかもしれない。
 この手は、取ってよい手なのだと。
 そこに理由はないのだと。
 理由も、打算も。ただ、あるのは純粋な好意という、優しい愛情だけ……

●先へ至る階段
「はい、暖かいミルクです」
 差し出されたミルクの湯気に記憶を映すように、連理は優真と初めて会った日を思い出していた。
「なにぼんやりしてるんだい?」
 早く受け取りなよ、とシャルティールに急かされて、連理はカップを受け取った。
「どうしたんです? ちょっとぼんやりしてましたが」
 優真に訊ねられて、連理はどう答えようか迷った。
「まあ……ちょっとな、思い出しておったのじゃ」
「何をですか?」
「はじめて、優真からホットミルクを受け取った時のことじゃ」
 優真は首を傾げていた。最初に会ったときに渡した飲み物がホットミルクだったことは、覚えてはいないのだろうと連理は思う。
「そんなこと、覚えてるはずがないだろう? いつも飲み物出すときに、何を出すか決めてるわけじゃないからね。何を出すか、気にしてはいてもさ」
 シャルティールは憶えているのかもしれないと、連理は思った。
「まあ、そうじゃわな」
 だから、あえて同意してみる。
「そうだよ」
「わかってはおるがの」
 だが、それは連理にとって特別で忘れがたいものだから。
 優真にも、憶えていて欲しかったのはある。
「無理を言うんじゃないよ」
 それもわかっているから、シャルティールはそういうのだろうとも思った。
「わかっておるのじゃ! 別に無理などは言っておらぬ」
「……なら、いいけどね?」
 優真は相変わらずにこにこと、そんな二人のやりとりを眺めていた。
 そして、ふと思い出したように声をあげる。
「ホットミルク……寒い季節ですよね」
 ぽん、と手を叩いて。
「あ、初めて会ったときに、連理さんに差し上げたのがホットミルクでしたよね」
「……そうじゃ。暖かいホットミルクじゃった」
 ホットミルクの湯気を見つめながら、連理は、自分の笑みがそこに映っているような気がした。
 あのとき自分を救った優しい暖かさに、まだこうして触れられることに感謝しながら……
 ただ願う。
 これからも、この暖かさを手放さないでいられれば良いと……

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