■ヨルフの涙■

●晩秋の高みに
 初雪が近づいていた。
 平地にその一片が舞い降りる前に、山地に先に、それは降り始める。雪の降る直前の強い冷え込みが、その日の近づいていることを示していた。
 紅葉が終わりに近づき、華やかまでに赤い葉が来た道の地面を埋めていた。
 エグザスは眼下の湖を見やった。崖の上に立っているのは、今は一人だ。煌く湖面が、目を突き刺す。エグザスは眩しそうに目を細めて。それから来た道を振り返って見下ろし、検証する。
 フランの足では進めない場所はなかったか、危険な足場はなかったか。思い起こして、大丈夫だと、うなずいた。
「では、レディをお迎えに行くか……」

「あっ」
 転びそうになったフランをエグザスが支えたのは、何度目だったか。あれからだいぶ経つというのに、まだ体力が戻っていないのかと、微かにエグザスは眉根を寄せる。
 フラン自身の運動神経は、悪くはないはずだったからだ。フラン自身はぼんやりしているようなところはあったが、少なくとも、以前は実はそれなりに文武両道の評価を得ていた。唯一無二というほどに好成績ではなかったが、一定のレベルで何事もこなせていた。
 以前は……だ。学問も体力も、今は以前の水準にはない。戻るまでには、もう少しかかりそうだった。最初を思えば、やはり前年に彼女に降りかかった災厄は長い長いトンネルだったのかもしれない。
「大丈夫ですか、レディ」
「大丈夫です……ごめんなさい、また」
 エグザスの腕の中で、フランは恥ずかしそうに頬を染めた。
「いいえ。……少し、休憩しましょうか?」
「だ、大丈夫です。さっきもおやすみしたばかりですし」
 体勢を直して、フランもようやく普通に立ち直す。
「ずいぶん、遅くなってしまっているような気もしますし……」
 そう言って、フランは空を見上げる。昼前までは晴れていた空は、今は重く曇って低く垂れ込めている。
 両手で自分を抱くようにして、フランは冷え込みに微かに震える。暖かい格好をしてきてはいるが、それでも足りない部分はありそうだった。
「お寒いですか?」
 エグザスは背嚢の中から、小さく折りたたんだショールを引き出した。それをフランの肩にかける。
「あ……ありがとうございます」
「時間のことならば、気にしなくても構いませんよ」
「でも」
「大丈夫です。十分に……間に合うはずですから」
「え?」
 エグザスもまた、空を見上げて答えた。
 それから問い返すフランを見下ろして、微笑みだけを返す。
 それは、まだ秘密だった。サプライズは予告がないほうが美しい。
 その肩に、ばさりと羽を羽ばたかせ、イルズマリが舞い降りてくる。
 転びそうになったところで、イルズマリは舞い上がったのだ。通常は、いつものように、フランの肩の上に乗っていた。
「ふむ……無理をするのはよろしくないが」
「イル」
 肩の上にいるパートナーを見遣り、フランは少し曖昧に微笑む。
「無理なんてしていないわ、イル」
「そうであろうか?」
 イルの言葉は疑問系ではあったが、確信はあるようだった。
「我輩が肩の上にいると、重いのであろうな……」
 普段はそれでも良いのだ。だが、ずっと歩き続けている今日は、その重みが大きくなっているのだろうと。
「ふむ。ここから、目的地までは後どれくらいであろうか?」
 イルズマリは視線をエグザスに向けて、問うてきた。
「今、樹の上を飛ばれたのなら、見えたかもしれませんが……もう少しです」
 後もう少し、この赤い道を登っていけば目的地に着くと。
「では、我輩は先に参ろう」
「イル?」
 そう言い出したイルズマリに、フランは小さく驚きの声をあげる。
「もう少しであるならば、問題はないのである。フラウニーと共に行くのが本来ではあるが、肩に乗っているとフラウニーの負担になる。しかし、ゆっくり飛ぶのは消耗するのである」
 鳥の性質に従って飛行しているのならば、イルズマリが速度を落とすのには限界がある。飛び回って移動速度を合わせるには、無駄な飛行距離が必要になる。
 そしてイルズマリの消耗は、フランの消耗に直結する。フランから離れることに不安がないのならば、離れる選択も一つだ。
「では、先に行っているのである」
 再びイルズマリは空に舞い上がった。
「エグザス殿、貴殿を信頼してのことである。フラウニーをお願いしよう」
 自存型リエラがパートナーから離れることも、ルール違反ではある。それも含めて、フランの安全も含めて、そして……
「心得ております」
 エグザスは影になったイルズマリに礼をした。

 再び、エグザスとフランは落ち葉に覆われた道を歩き始めた。
 話をしている間に、事実上休憩になったところはあった。実際に残りの距離はわずかであったので、後はもう目的地まで止まらずに歩いていけるだろうとエグザスも思っていた。
 もう転ばないようにと、フランの手を引いて。
「本当に遅くなってしまいましたけど……本当に大丈夫なのでしょうか?」
 更に冷え込んできた空気に、フランはあたりを見回した。吐く息は白く、視界を曇らせる。
 フランに不安を感じさせることは本意ではないので、エグザスは微笑みと共に答える。
「大丈夫ですよ、レディ。信じてください……今日中にきちんと、帰りもお送りします」
「あ……」
 フランは疑いを口にしてしまったことに気付いて、空いた片手で口元を覆う。
 それから申し訳なさそうに、わずかにうつむいた。
「ごめんなさい。疑うわけではなかったんですけど」
「いいえ、もう時間が少し遅いのは事実ですから……仕方がない」
 顔を上げてくださいと求めて、エグザスはそっとフランの肩に手を置く。
「お気を悪くされませんでしたか……?」
 少し小首を傾げるように、フランはエグザスを見上げて来る。
「いいえ、とんでもない」
 そう否定しながら、フランの物問いた気な瞳に、エグザスは少しだけ困っていた。
 本当に問うていることは、言葉の外にあるのではないかと。
 その目は、エグザスの想いを見透かしているのではないかと。
 思う通りならば、少し困ると……
 いや、困りはしないか。それで何かが変わるわけではないのだから。一度はもう、伝えてしまったことだった。言葉になったものは、もう後戻りはできない。
 フランのただ一人になりたいと……それは変わるわけではない。しかしそれがフランにとって迷惑ならば、ただエグザスにできることは、知らぬふりをすることだけだ。
 まるで、何もなかったかのように。
 フランを困らせ、そして突き放されるくらいならば。
 きっと耐えられると……
「……あの」
 物問いた気な瞳が、揺れている。
「なんでしょう、レディ?」
 そう聞き返してはいけない、そういう気はしていた。だが、エグザスに聞き返さない選択肢もなく。
「以前にお聞きしたことではあるのですけれど……」
 フランはまた少しうつむいた。
 ああ、とわずかな覚悟を決めて、エグザスは次の言葉を待つ。
 誤魔化すにせよかわすにせよ、決定的なものを待たなくてはならないのは歯痒かったが。
 沈黙が舞い降り、しばらく二人はそこでそうしていた。
 いつ来るか、いつ来るかと待って。
「――くしゅんっ」
 そう身構えていたから、余計に驚いて慌てた。うつむいていたフランが、くしゃみをしたことに。
「ご、ごめんなさい」
 慌てたのは、フランも同じだったかもしれないが。
「大丈夫ですか……止まっていたから冷えたのですね」
 だが、もう予備の上掛けはフランの肩にかかっている。エグザスは急いで考えを巡らせたが、更に足りないとなれば、後はもう自分の上着くらいしかなかった。
 わずかに迷った後、エグザスは上着を脱いでフランに着せかけた。
「だ、だめです、これは」
 だが、さすがにそれはフランも遠慮して外そうとする。
「いいえ、着ていてください。レディフランに風邪などひかせては、イルズマリ殿の信頼を裏切ることになりますし、私自身も納得いかない」
「だめです、それじゃエグザスさんが風邪をひいちゃいますから」
 上着を押し付けあいながら、そんなやり取りの果てに。
「じゃ、じゃあ……」
 フランの肩に何度か目に上着をかけた後、フランがそれをとうとう脱ごうとしなくなったのにエグザスがほっとしたのも束の間。
 正面から、フランはエグザスをぎゅっと抱きしめてきた。背中に両腕を回して、自分が上着の代わりになりたいかのように。
「レ……レディ!」
 エグザスは更に慌てたが、突き放すことはできなかった。
「レディ……! ……離れてください」
 搾り出すような声で、エグザスは懇願する。
「でも、上着をいただいてしまったら、エグザスさんがお寒いですから」
 密着した位置で、フランはエグザスを見上げてきていた。
「私ならば、大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないです……それでは、寒いですから」
 だが、この冷え込みの中での大丈夫は、いささか説得力には欠けるだろう。どう言ったらわかってもらえるのだろうと、エグザスは大急ぎで考えなくてはならなかった。
「これでは、暖かくはないですか?」
 フランは問いかける。
 自分の行動の意味を、知っているのかいないのかはわからなかった。
 物理的に温度を問われているのならば、暖かいことは間違いない。もっと加味するならば、暖かく、そして体の芯から熱く、更にはどこまでも冷え込む想いを伴っていた。
「暖かいです……ですが」
 無理矢理に引き離すか、このままでいるか。フランの肩に置いた手に、力を込めるかどうかを迷いながら。
「このままでは歩けません、レディ」
「それはそうなんですけど……」
 でも、と続けて、まだフランは離れない。
「上着を、もう一度着てくださるなら」
「……わかりました」
 そうでなければ、自分からは離れないと言うのならば、やむをえない。
 エグザスがうなずくと、やっとフランは離れた。フランが離れてほっとしたところで、フランに着せかけた上着を再度受け取る。
 それをもう一度、着て。
 だが、そこで、やはり気になってしまう。フランも寒いはずなのだ、と。
 迷いは巡ったが、フランが自分を抱きしめるような仕草をしたときに、エグザスは決心した。
 大丈夫だ、と、自分に告げて。
「これで、少しは寒くはないでしょうか?」
 エグザスはフランの肩を抱いた。
「あ……は、はい……」
 わずかに頬を赤らめながら、フランはまたうつむく。先ほどフラン自身のしたことのほうが、よほど大胆であったのに、そんなことは棚に上げてか……あるいは、本当に自覚はなかったのかもしれない。
 そんなことも気付かぬほどに心配してくれたことを喜ぶべきなのか、意識させなければフランを想う一人の男であることを意識されない位置にいることを悲しむべきなのか、エグザスにも判断はつかなかった。
「さあ……イルズマリ殿が待っているはずです。行きましょう」
 また二人は歩き始めた。
 後わずかの道のりは、とても長く……そして、もっと長ければ良いとも思った。二人きりで、道を行く時間が。

●舞い降りし涙
 湖面に映る空は鈍い色をしていた。暗い空の向こうで、陽は沈みかけていた。
 崖の上に立って、風を身に受けながら、二人で湖と空を見る。
「……雪」
 ひらひらと、花弁のように舞い始めた初雪に、フランは手を伸ばす。
「空を見ていてください……もう少しで」
「え、何を……」
 エグザスは囁いて、その視線を再び空へと引き戻す。
 そして、フランの言葉は続かなかった。

 さらさらと雪の舞う雲間から、光が射す。
 湖面は舞い降りる雪と光に強く煌いた。

「なんて……綺麗……」
「ヨルフの涙と……言われているそうですよ」
 形のない神の、形ある涙。
 煌きに見入っていたフランは、エグザスの囁きにゆっくりと呟きで返す。
「ヨルフは……何を嘆いてこれほどに美しい涙を流すのでしょう」
 そのいわれを語ろうとしていたエグザスは、その呟く横顔に心を囚われて、息を飲む。
「その司る愛に、形がないことをでしょうか。その、儚さに……いいえ」
 どこか思いつめた、だが、ただ笑っているよりもはるかに美しい横顔。
 それは、そっと目を閉じて。
「それに、形を与えないことにでしょうか……」
 愛に形を与えないことに。
 それが、神を嘆かせる罪であるかのように。
 そして、自らが咎人であるかのように……
 それは罪を背負った罪人の美しさであるのかもしれなかった。
「……いいえ」
 そしてこの日、ここへフランを連れてきたことを悔やむべきか善しとすべきかを、エグザスは長いこと迷うことになった。
「形はなくとも、ヨルフが愛を嘆くことはないと思います」
 ただ今は、フランの隣に立って。
「形がなくとも、愛は儚くはない……」
 ただ、そう答えて。
「形がなくても……?」

 二人は、そこで長いこと立ち続けていた。

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