■いつかの約束■

「もうそろそろ、カルロの誕生日よね」
 とん、と軽やかな足取りで、黒猫は机に飛び乗った。
 “暇人”カルロの視線の高さとも変わりないところに、美しい猫の顔がある。
 この雌の黒猫はロザリアと言って、カルロのパートナーだ。自らの肉体を持って、この世界に在り続けられるリエラである。普通だとリエラが世界に現れるにはパートナーに依存する部分が非常に大きいが、ロザリアのような自存型ならば、さほど依存しないでも済む。単独で、永遠にとはいかないまでも。自存型リエラはパートナーに力を貸し、時には導き、その代わりに、この世界に存在するための絆を持つのだ。
ずいぶんと長く一緒にいる、その生涯のパートナーの顔をカルロは覗きこんだ。
「そっか。忘れてた」
「いやぁね、ボケるにはまだ早いわよ?」
 ロザリアは容赦なくそう言うが、カルロにしてみれば、なにかその日に楽しみがあるわけでもない。プレゼントに欲しいものでももらえれば、楽しみにして待てるが……そうでなければ、ただ年齢が変わる日だ。そんな日をずっと意識はしていられないというところだった。自分の誕生日なんて、そんなものだと思う。
 家に居たころは、ちょっと違っていただろうかと思い返しながら、ロザリアの厳しい突っ込みに返してみる。
「度忘れしてただけだよ」
 昔は、両親がプレゼントをくれたような気がした。ずいぶんと幼いころにカルロはロザリアと出会って、その後には程なくアルメイスにやってきている。そしてアルメイスに来て何年かは、確かに誕生日には両親からプレゼントが届いていた。最近はそのころと比べたら、ややおざなりになって、仕送りとカードが届く年が続いている気がしたが。
「……で、ロザリアは、なにかくれるの?」
「私になにが用意できるかは、そのおつむでもわかると思うけれど?」
 カルロが何の気なく言ったことに、呆れたように黒猫は反論する。
 自存型リエラにかかる費用は、パートナーのフューリア持ちである。人間のふりをして働けるような形のリエラでなければ、自分で金を稼ぐことは難しい。
「あー……あはは、ごめん、今月の小遣いはちょっとピンチかも」
 カルロは肩をすくめる。
 そもそも、それでは自分へのプレゼントを自分で買うようなものだ。意味のないこと、おびただしい。
「大したものでなくて良いのなら、どうにかもできるけれどね。それこそ小さいころみたいに、色鉛筆程度でも喜んでくれるのなら」
 カルロが正しく理解していることに一応は満足したのか、ロザリアは比較的穏やかに続けた。だが、そこに持ち出した記憶に、カルロはやや困惑した。
「色鉛筆……」
 引き合いに出されたものの出所をたどるには、記憶の彼方まで遡っていかなくてはならなかったからだ。すぐには出てこなくて考え込んでいると、ロザリアはさらに続けた。
「あのころは、まだ可愛かったのにねえ……」
 ロザリアにして、自分を可愛いと言わしめる年齢。
 それが本当に時の彼方であることは、間違いない。
「そういや、ロザリアとの付き合いも長いよね……」
 それは多分、彼女と出会って間もないころの話だ。
 そこまで一気に、カルロは記憶の糸をたどって……
 そこに、たどり着いた。

 それは、冬の初めのことだったような気がした。
 少年は、まだ春と秋に子猫が生まれることも知らない年齢だった。
 まだ片手の指で、自分の年齢を数えられる歳だった。
 理屈ではなく、ただ出会っただけだった。
 雪の降る公園で。
 ――その仔猫は、冷たくなりかけていた。

「あ……」
 ベンチの影で、茶虎の毛並みの仔猫はぐったりと横になっていた。
 毛並みは酷く汚れて、そこにはありありと死の影が浮かんでいた。もはやそれは、忍び寄るというところではなく。もしも見えたとしたら、その後ろに死神がその最期を待っている……そこまで、間際であったと言えるだろうか。
 少年は、薄汚れた仔猫の前にしゃがみこんだ。
 その小さな体に手を差し伸べ、すくい上げる。小さな手が触れたとき、仔猫はぴくりと動いたような気がした。
 だが、命の砂は幼い少年カルロの手からはらはらと、こぼれ落ちていくようだった。
 どうしたらいいかもわからず、どうすることもできず。
 ――にゃあ。
 それは、最期の叫びのように。
 仔猫は鳴いた。
 ……ような気がした。
 それはただ、口が動いただけだったのかもしれない。
 カルロの耳に届いたそれは、幻聴だったのかもしれない。
 しかし、それが確かに最期の瞬間だった。
 ただ、小さな命の火が消えていく様をカルロは見つめていた。
 呆然と。
 命は、カルロの手のひらで冷たくなっていった。
 命あるものが動かなくなった瞬間を、カルロは体で感じることで理解した。これがもしも見ていただけだったなら、『死』という概念にまだ近しくない年齢のカルロには、その現象を正しくは理解できなかったかもしれない。
 だが生物がただの肉塊になった瞬間と、その変化は、カルロを魂から揺さぶった。
 知識ではなく感覚が、カルロに仔猫が二度と動き出さないことを悟らせたのだ。
 気がつけば、カルロは泣いていた。
 嗚咽が大きくなって、やがて慟哭に変わる。
 どれだけ、カルロはそうやって泣いていたのだろうか。
「うるさいわ。なにを泣いているの?」
 気がつくと、目の前に黒猫が座って……カルロを見上げていた。
 泣くのを一瞬忘れて。辺りを見回しても、他にはなにもなく、誰もいない。
 黒猫は、カルロの手を見つめているようだった。
 そこにあるものがなんなのか、黒猫の位置からではよくは見えないはずだったが。
「なにを泣いているの?」
 黒猫は繰り返した。
 次の声が聞こえて、先ほどにカルロを引き戻した声の主がこの黒猫であることに、カルロもやっと気がついた。
 それでも涙は零れていたけれど。
「なにを?」
「なにを……?」
 繰り返し繰り返し問われ、ようやくカルロは返事をした。
「そう、なにを。何故。なにが悲しいの?」
 黒猫は問い続ける。それが、自分の役目であるかのように。
「それは……」
 カルロは手の中の骸を見下ろす。するとまた、涙はとめどなく流れ出した。
「……いつまで、そうやって泣いているつもりなの」
 黒猫は、なにもかも知っていながらカルロに問いをぶつけているようだった。
「いい加減に泣くのは、お止めなさい」
 黒猫はさらに続ける。
「あなたがいくら泣いても、その命はもう戻ってこない」
 残酷なまでにはっきりと、黒猫は宣告した。
「助けられなかった命は、戻ってこないの。それが、死というものよ。命は失われる前に繋ぎ止めなくては」
「ど……どう、やって……?」
「……方法は様々ね。ただ、命を繋ぎ止められる者に共通することがあるのなら……その者たちは、強い」
 各々に、意味は違えども。
「僕が弱いから……この子は死んじゃったの?」
「そうね。でも、子どもは弱いものよ。あなたが特別に劣っているわけではないわ」
「じゃあ……どうしようもないの? 僕……」
 助けたかった。そう、カルロは言おうとして、初めて自分が何故この仔猫を手にすくい上げたのかを正しく理解した。助けたかった。それすらもわからなかったなら、助けられるはずもなかったけれど。
「今はどうしようもなくても、次はどうにかなるかもしれないわ。あなたは、この先にも、何度も、いくつもの死に出会う」
 それは厳かな予言のように。
 黒猫はカルロに告げる。
 それは衝撃的にカルロの耳に響き……涙も止まった。
「……少しは落ち着いた?」
 黒猫の声が、少し優しくなった。
「私はロザリア。……あなたは?」
 黒猫は名を名乗り、そして名乗りを促す。
「……カルロ」
「では、カルロ。約束なさい」
 黒猫、ロザリアの声がきりりと強く引き締まる。
「私が一緒にいてあげるから、もう泣くのはおよしなさい。泣いていてもなにも変わりはしないのだから」
 その声には力があった。
「そして、強くおなりなさい。自分がなにをしたいのか理解し、それを実行できる強さを手に入れなさい。守ることも助けることも……そしてただ生き残ることも、死を乗り越えた向こう側にある」
 まだ、それは幼い少年には難しい誓いだった。
 それでも――

「そんな約束もしたなあ……」
「なによ? いきなり」
 色鉛筆の記憶にはたどり着けないままに、カルロは追憶の扉を閉じた。そこから先へ進んでしまうには、思い出したものが少しもったいないような気がして。
「や、真面目に兵学でも勉強しようかって話」
 そう答えながらごそごそと、カルロは教科書を引き出しから出してくる。
 あのときの約束は、まだ多分果たされてはいないだろう。
 今はカルロも、死がどういうものであるかを知り、それに対する限界を知っている。
 だがその限界を自分なりに超えることが、あのときの約束の正体なのだ。
 今ある限界を超えたなら、限界は更新されて、その次の限界が現れる。その繰り返しであることも、今ならば理解できるけれど。
 強く。より強く。
 心も、力も。
 生きていくということは、そういうことなのだ。
「変な子ねえ、あいかわらず」
 怪訝な様子で、ロザリアはカルロを眺めていた。
 その様子に、カルロはくすりと笑い。
「……最初に会ったときのことを、思い出してたんだよ」
 謎を解くヒントのように、カルロは告げた。
 ロザリアも、それでもう怪訝な表情は改めた。
 それだけでわかるものなのだろうかと、カルロはふと思う。
 あのときも、ロザリアは預言者のようだった。
 なにから、言葉を預かっていたのかはわからないが。
「最初は僕が呼んだのか、君が見つけたのか……どっちだったっけ?」
 その答は、ずっと用意されていたもののようだった。

「――両方よ、泣き虫さん」

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