■修学旅行の一夜■

●小さな決意
「……見るのなら、最後まで見ていって」
 そう言って、エリスは“ぐうたら”ナギリエッタの手を引いて、縦に細長い安宿の建物の階段を登っていった。それは一階につき、狭い部屋が二部屋ほどしかない建物だった。両脇に別の建物がなかったら倒れそうなほど不安定でおんぼろの安宿の三階まで登って。そこで、エリスは足を止めた。
 帝都の夜。
 アルメイスの修学旅行……それは場を変えた実践訓練の合宿だ。例年は単純な戦闘訓練が多いのだが、今年のそれは多少の思惑が絡み合って、帝都を舞台にした捕獲・逃亡訓練だった。
 ナギリエッタたち女子は、捕獲側である。だが二人は、訓練開始後まだ誰も捕まえていなかった。
 ナギリエッタの願いで、二人は夕暮れ前に、ここ……エリスのかつて暮らした貧民窟へやってきて。そしてエリスは、この地区に踏み込んでいた学生たちを狩りたてるように追い払ったが、捕まえるまでは追い続けなかったので。
 ナギリエッタの計画では夜明け頃に追われる側の男子生徒たちがホテルで休んでいるであろう時間を狙って、寝込みを襲うことにしていたので、今この時間に一人も捕獲できていないこと自体は気になることではなかったが。
 ただ、貧民窟に踏み込んだ後のエリスの行動を見て、ナギリエッタは思う。
 エリスは、ここに踏み込まれたくはなかったのではないかと。
 自分の過去を見られたくはなかったのではないかと。
 ここに来たいと言ってしまったのは……間違いだったのかもしれないと。
 その思いは、エリスの言葉で確信にまで深まった。「見るのなら、最後まで」……中途半端には見ないでくれと。そういうことなのだろう。中途半端に、興味本位に、過去を暴かないでくれと。
 貧民窟に見えるものは、罪と堕落と穢れと悲しみと。だが、そこで終わってはいけないのだろう。そこから、もっと根源的な、もっと仕方のない、もっと奥深くのものを悟らなくては……本当のエリスには辿り着けない。
 だが、それは難しいのだ。普通には上辺だけを見て、理解したつもりになる。そんな過ちを、過去に何人の者が犯したのだろう。
 かつてナギリエッタは、そういう者に怒りを感じたことがあった。だが、望んだことは同じことではなかったかと……
 罪悪感が小さな胸を塞ぐ。
 エリスは、三階の一室の扉を開けてナギリエッタを振り返る。
「ナギリエッタ」
 そしてナギリエッタを招いた。
 だが、ナギリエッタはすぐには動けなかった。
 エリスは優しいから、ナギリエッタがエリスを傷つけても、誰かがエリスを傷つけても、黙っている。人を傷つけて満足しているような人の過ちさえも、飲み込んでしまう。愛されることと大切にされることを知らなかった頃からさえも、エリスは優しかった。名も知らぬ誰かを庇うこともあった。
 その優しさが呪われた宿星のせいであったとしても。
「どうしたの……? 来て」
 でも、やっぱりエリスはナギリエッタを手招きする。きっとどんな間違いをしても、エリスはナギリエッタを許すのだろうと、そんな気がした。
 ならば、せめてエリスが望むように。最後まで、見届けようと。
 そんな小さな決意をして、ナギリエッタは一歩踏み出した。

●遠き日の闇の中で
 部屋の中は狭かった。
 普通のベッドが一つ、二辺の壁際に寄せられてある。シーツだけはきちんと取り替えてあるのか、やや黄ばんではいるが、汚れてはいないようだった。こんな場末の安宿にしては、それだけはきちんとしているようだった。
 ベッドの枕元になっている辺の壁に、小さな窓があった。どういう構造なのかすぐにはよくわからなかったが、窓の半分だけから空が見える。残りの半分は隣の建物の壁だ。
「ベッド、一つしかないょ……エリス、いいの?」
 ベッドのところまで歩いて行って、ナギリエッタはまだ戸口のところにいたエリスを振り返った。
 エリスは扉の閂をかけ、下にいた老婆にもらった鍵をそこにかけている。
「私はいいけど……ナギリエッタは私と寝るのは嫌?」
 エリスは顔を上げると、そうナギリエッタに問い返した。この部屋にベッドが一つしかないことは、あらかじめ知っていたようだった。
「ううん! やじゃないょ」
 エリスはゆっくりと歩いてきて、ベッドの、窓の見える位置に腰掛けた。そして、自分の隣をぽふぽふと叩き。
「いらっしゃい、ナギリエッタ」
「…………」
 そのエリスの悠然とした様子がナギリエッタにはひどく大人っぽく思えて、少しドキドキした。
 ナギリエッタは黙ってエリスの隣まで行って、そこに腰を降ろす。
「朝まではまだ、だいぶ時間があるわ。すぐ寝るのもなんだし、少し話でもしましょう」
 窓の外へと視線を投げながら、エリスはそうナギリエッタに求める。ナギリエッタにしてみれば、望まれるまでもないことだった。エリスがナギリエッタに見せたかったものがこの部屋そのものだったとしても、まだその真意はナギリエッタにはわからなかったので。
 エリスがナギリエッタに何を見せたかったのか、まずそれを訊ねたいと思う気持ちがナギリエッタの中で首をもたげる。
「うん……その、エリス。聞いてもいぃ?」
「ええ……何かしら?」
「エリスが見せたかったものって……この、部屋?」
 真摯な表情で長身のエリスを見上げるナギリエッタに、エリスはふっと微笑んだ。
「そうよ、ナギリエッタ」
 そしてその答には、迷いはない。
「……どうして?」
 その理由を問うには、わずかな勇気が必要だった。それが多分、一番大切なことであると同時に、エリスの中に踏み込むことだと思えたからだ。また誤れば、ただエリスを傷つけるかもしれないとナギリエッタには思えたからだった。
「……ナギリエッタ、ここに来るまで路上に立っていた女の子を見た?」
「ぅん」
「何してるのか、わかる?」
「ええと……」
 わかるとは思うけれど、それが正しいかどうかを迷って、ナギリエッタは口ごもった。
 迷っている間に、エリスは続く言葉を紡いだ。ナギリエッタが答えられなかったので、初めの説明から始めたようだった。
「あの女の子たちは、今夜、自分を買ってくれる男を捜してるの」
 やっぱり、とナギリエッタは思う。話はしなくても、その様子は見て感じ取れた。そういうことがあるのだと、そういう娘たちがいるのだということは聞いたことがあった。
「夕刻から街角に立ってね。男を誘うのよ。いくらかは人にもよるけれど、たいがいははした金で、一晩自分の体を男に自由にさせるの」
「……安いの?」
 そこが少し意外だったので、ナギリエッタは思わず聞き返した。お金のためにするのだろうとは思っていたが、けして楽な稼ぎ方ではないのだから、安いのならば、そうではない方法を選ぶだろうと思えたからだ。
「安いわね。あんなとこに立ってる娘じゃ、本当に一日どうにか食べられる程度ね……でも、多分、あの中のいくらかは買ってくれる男がいないと、まともに寝る場所もなかったりするのよ。残りのいくらかは元締めに飼われていて、帰る場所はあっても稼いで帰らなければ折檻されるのね。稼いだって、その金は巻き上げられるから、食べることもろくに出来なかったりして……どっちがいいかは微妙だわ」
 それでも夜の貧民窟を小娘一人で彷徨うくらいなら、はした金をもらって見知らぬ男と一晩過ごしたほうが安全なのだと……
「それだって、運だけれど。買い手を見つけても運が悪ければ危険な男に当たって、朝には殺されてることだってあるわ」
「ぇ……」
 ナギリエッタは息を飲んだ。その様子を見ながらも、エリスは言葉を止めない。
「買い手の男に薬漬けにされて、昼も夜も切れ間なく客を取らされるような最下級の店に勝手に売られるようなことだってあるわ」
「エリス……だって、あのコたち、まだ」
「……年齢は関係がないのよ、ナギリエッタ」
 優しく諭すように、エリスは続ける。
「客が捕まらなかった夜は、その辺のいきがってつるんだチンピラどもに捕まって、慰み者にされたあげくに殺されてしまわないように、隠れていないといけないの」
 何を食べる金もなく、寒さも夜露もしのぐ場所もなく。
 ナギリエッタには耳を塞ぎたくなるような話が続く。だが、それはここに住む……ごく当たり前の『小娘たち』の現実なのだろう。男ならば、少し違う。女であるというだけで商品になれる価値のある、弱い生き物の現実だ。それを買う男たちは、小娘たちよりも一段高い場所にいる。
 だから、それは。
 エリスは立ち上がって、窓際に立った。
 ナギリエッタに背を向け、半分だけ見えている歪な暮れ行く夜の風景の前に立って。
「私にも、あそこに立っていた日があったわ」
 その告白は、ナギリエッタを驚かせはしなかった。それは前から噂されていたことだったからだ。
「そうやって生きていくしかない日々があったわ。好き嫌いじゃなく、それしか選べない……いいえ、それしか選べないと思い込んでいた頃があった」
 昏さを増した窓際で、エリスは艶やかに振り返る。
 娼婦の微笑みで。
「あの頃、私には何もなかったから。力も……アルムの加護も」
 望まずと、それしか選べぬ時がある。
「ナギリエッタ……あの頃の、そんな私でも、あなたは私を好きと言ってくれたかしら」
 それを弱さだと切り捨てることは容易いだろう。切り開けと叱咤するのは容易いだろう。だが、それの叶わぬ弱さから、目を背けることもまた弱さだ。
「エリス!」
 ナギリエッタは跳ねるようにベッドから立ち上がって、エリスの胸に飛び込んだ。
「信じてくれないかもしれないけど……ボクはどんなエリスでも好きだょ!」
 きっと、何もなかったエリスでも好きになったと。
 どんな選択も許せると。
 それはもう、ありえない過去の闇の中の仮定だけれど。
「……ありがとう、ナギリエッタ……この部屋はね」
 縋り付くナギリエッタを抱きとめて、エリスは息を吐いた。
 これがエリスにとって、最後の通過儀礼だったのかもしれない。
 どんな選択も許せると……
 誰かに言ってもらいたかったのだ、暗闇に立って男の袖を引いていた少女は。
「この部屋はね、昔、私が客と寝るときによく使ってた部屋の一つなの」
 ナギリエッタの緑の髪を撫でながら、エリスは囁くように言う。
「ここが私の過去の眠る場所。きっと忘れることはないわ……あの時代がなかったら、今の私もいないから。あの頃、私は二つの宿をよく使っていて……ここは、そのうちの片方。もう一つは」
 淡々と、エリスは続ける。
「もう残ってない。私が、アルムを初めて呼び出した日に崩れたから。運の悪い……夜だったわ。女を絞め殺すのが趣味な男の袖を引いちゃってね」
 その男も、同じ宿にいた娘たちも、共々に瓦礫の下敷きになったと。
 ただ淡々と語るエリスを、ナギリエッタはぎゅっと抱きしめた。
「この町では、力がものを言うから。私をそれから、侮る人はいなくなったけど。それでいきなりお金を稼ぐ方法を思いつくわけでもなかったから、それからしばらくは暮らしが変わったわけでもなかったわ……最後の客に会うまで」
 エリスを抱いた最後の客が、得た力を使って、修練で更に力を得て、それで生きていく方法をエリスに教えた。
 ふと不安に駆られて、ナギリエッタは問いかける。
「その、最後の客って……」
 エリスはそこで、くすりと笑った。
「長い銀の髪の優男だったわね」
 そしてそれだけを答え。
 それから短期間で、エリスは貧民窟のいくらかを力で捻じ伏せ……
 最下層の町の最下層で春を売っていた娘は、町の顔役と肩を並べるまでになった。そしてそのまま時は過ぎるかと思ったけれど。
「その頃にね、ルーが来たの。自分が勝ったら、力を貸せって……勝手な言い草よね」
「それで、エリスは……」
「……昔、話したことあったわね。決闘して、負けたの。私は結局付け焼刃の力しかなくて、井の中の蛙だったから」
 そして、エリスはアルメイスに連れてこられた。そこから先は、ナギリエッタも知っている物語。

「これで……私の話はおしまい」
「おしまぃ?」
 ナギリエッタはエリスを見上げた。
「エリス、もっと話して」
「……ナギリエッタ」
「もっとボクに、エリスのことを教えて」
 夜はまだ、長いからと。
「……そうね、ナギリエッタ」
 半分に欠けた月が覗く窓辺で。
「何の話から、しようかしら……」
 女は、遠き日の闇を語る――

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