■温泉旅行のその夜に■

●湯殿の邂逅
「なんだって、ここにいるんだ」
 シャルティールの声は剣呑そのものだった。
 咎められたサウルは苦笑いを浮かべ、簡潔に答える。
「そりゃあ、温泉に入りに来たんだよ」
 二人が顔をあわせたのは温泉施設の、しかも脱衣所なのだから、これはシャルティールの問いにそんな答が返るのは、ある意味仕方のないことだろう。
 だが、シャルティールとしては何故そんなことという気分にもなる。サウルの借りているという別荘は結構離れているのに、と。
「せっかく湯治場にいるんだから、大きな風呂に入りたいじゃないか」
 個人が所有したり借りられたりする普通の別荘では、大きさに限界はある。そういう湯治客のために、施設はいくらか払って風呂だけの利用もできるようになっていた。外部利用料として掲げられている利用料はけして安くはないようだったが、別荘を借りているような湯治客は大概金持ちなので、その額でも問題ないのだろう。ちなみに町民には時間や場所の制限があるが、大きな割引があるようで、町の者らしい姿もちらほら見かけた。
「別荘の風呂で我慢してればいいのに」
「湯に入ったらおとなしく帰るから、そう目くじら立てないでくれよ……と」
 サウルはシャルティールとほとんど並んで露天風呂のある場所に出て、冷たい風に肩をすくめたところで。
「あ、走ると滑りますよ、連理さん」
 そんな声が壁の向こうから聞こえて、二人とも足を止めた。
 サウルはシャルティールが普段より3割増し程刺々しいのはこのせいか、と納得し。シャルティールは理由をサウルに悟られて、ひそかに舌打ちした。
 それでも二人とも知らん顔をして、いったん止めた足を動かして露天風呂に近づく。サウルはもう数週間この町にいると言うだけあって、手馴れた様子でかけ湯をし、岩湯に身を沈めた。
 シャルティールも同じように、湯に入る。くさくさした表情に変わりはないが、どこか諦観が滲んでいた。
 サウルは隣の会話よりは、シャルティールの表情のほうを窺っていたようだった。

●つないだ手が離れても
「……優真、いつ行くのじゃ?」
 こうして湯に浸かっていると、連理はどこか昔を思い出すような気がした。大量の湯に浸かるこの習慣は、おそらく楼国から流入したものだ。レヴァンティアースの習慣ではない。
「春になったらでしょうか。もっと遅いかもしれませんが」
 どこへとは、あえて連理は言わない。優真もわかっているのか、どこへとは言わなかった。
 優真は行くが連理はアルメイスに残る。二人ははなればなれになるのだ。
 それが酷く悲しく、嫌なことで、連理はそんなことを優真に選ばせたサウルが憎らしかった。
「……遠く離れてしまうの」
「……大丈夫ですよ、急行列車なら一日ですから。そんなに遠くはないと思いますよ。連理さんが困っていたら、いつでも戻ってこれますし……いつでも訪ねてきてくださいね」
 優真の決心は揺るぎないようだった。それは前からわかっていたことではあったが。
 サウルは優真の前では放り投げた鞠のようにどこに転がって行くやらわからない、ぼんやりしたところを見せるから、優真はそれに引っかかって追いかけて行こうとしているのだ。
 転がる鞠を追っていって捕らえるには、まずは両手が要る。サウルという鞠を追うには、優真は連理の手を離さなくてはならない。だから後から出てきて優真を横取りするのはどういう了見だと、連理は思う。
 内心のいらつきと不満は尽きない。
「あの鞠男め。今度会うたら、蹴飛ばしてやろうか……」
「どうしたんです? 連理さん」
 ぶくぶくぶくと顔の半分まで沈んでいった連理を、びっくりしたように優真は引き上げた。
「息ができなくなっちゃいますよ」
 そして、にこにこと座りなおさせる。
「……そうじゃな」
 そう答えながら、連理の中にはふわりと何かが舞い降りていた。
 そして思ったままを口にしてみた。
「優真は、妾とシャルティールとサウル、誰が一番大事じゃ?」
「ええ?」
 その言葉に、優真は本当にびっくりした。そして、笑う。
「順番なんてつけられません」
「では妾とシャルティールとサウル、誰が一番好きじゃ?」
「順番なんて、つけられませんよ」
 次の問いにも、同じ答が返ってきた。
 そこでいったん連理は満足した。
 男と女の差はあっても、そこに順番はないのなら。一度はこの手が離れても、再び繋ぐ日も来るだろう。ならば……
 嫌いは嫌いでも、優真と共に先を行くときにどうしても視界に入るのならば。

 ぱしゃん。
「な、なんだい?」
 不意にシャルティールが湯をかけてきて、サウルはびっくりした。
「なんとなく、腹立たしくなったのさ」
「嫌われてるのは知ってるけど……大人げなくないかい」
 サウルは苦笑いを浮かべる。嫌われたからと言って傷つくほど繊細ではないが、と。
「連理の代わりだよ、そのくらいは我慢するといい。あの子はさ、大人びていたってまだ子どもなんだよ」
 その意味は、サウルにもすぐにわかった。女湯の声は、小さいながらも聞こえていたからだ。男湯があまりに気まずすぎたので。
「ああ……まあね。そんなに的外れな不満でもないかな、と、僕は思うけど」
 おまえがそんなんだから不満の行き場がなくなるんだ、と喉元までこみ上げたものをシャルティールは飲み込んだ。
「的は外れてないけど、あんまり意味はないね。あの子も一度離れてみればわかるさ」
「君がそういうことを言うとは思わなかったなあ……」
 ぼんやりとサウルがそうつぶやく。
 これだからだとシャルティールは思いながら、眉根を寄せる。
「おまえのために言ってるんじゃない。でも、未来は見なくちゃいけないのさ」
 誰であっても優真と共にいるのなら、優真が望む未来を見なくてはならない。シャルティールもそうであるように。
「優真がおまえと一緒にいない未来は、連理には選ぶ権利がないんだよ。でもちゃんと考えれば、連理が優真と一緒にいる未来は選べる。優真はそういう娘だからね」
 微妙な顔で、サウルはタオルで顔を撫でた。
「預言者には敵わないな」
「……おまえが絶対に優真とずっと一緒にいるって話じゃないから、勘違いするなよ?」
 脅すようにシャルティールが声を低めると、サウルは肩をすくめた。

●縁の日
「あ、サウルさん」
 優真たちが湯からあがってロビーに出ると、意外な人物がシャルティールと向かいあってソファーに座っていた。サウルがそこにいる以上に意外だったのは、シャルティールが向かい合って座っていたことだ。
「やあ、時間があったら、これから縁日に行かないかい?」
「縁日ですか?」
「露店の並ぶ通りのことをそう言うんだそうだよ。夜は通りの露店がそれぞれランプを灯して、とても幻想的なんだ。お菓子を売っていたり、ゲームをさせてくれる露店もたくさん並んでいるって……連理君は、見たことがあるかもしれないな。元はやはり、楼国から伝わった物らしいから」
「祭りじゃな」
 屋敷から出ることのなかった故郷では、聞くだけの存在だったが。
「おもしろそうですね」
 にこにこと優真が応じると、サウルは連理に視線を移す。
「どうだい、連理君、一緒に」
「ふむ」
 連理は厳かに頷いた。
「よし、一発蹴っ飛ばさせるのじゃ。そうしたら行ってやろう」
「ええ?」
「連理さん?」
 さすがに頓狂な条件に、サウルも優真も声をあげる。ただ、シャルティールだけが笑っていた。
「鞠は蹴られるものじゃ」
 連理は胸を張って言った。

「妾の蹴った鞠がどこかに行ってしまうのを優真が追うのならば、やむをえんからのう……」

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