■誰かのためにできること■

●思い出をトランクに詰め込んで
 思えば、この部屋にも長いこといたと……織原優真は、アルメイスでの生活の拠点だった寮の部屋を見回した。もう大きな荷物は行き先に送ってしまうか、実家に送ってしまうかしたので、備え付けの家具以外は何もない。何もなくなると、がらんとして、ずいぶん広い部屋に思えた。
 殺風景だとこんなに広い部屋だったのか、とふと思う。ずっとここで、シャルティールと二人で寝起きしてきて。途中からは連理も出入りするようになって……だから狭く感じていたんだと、そう思う。
 春休みの間は連理も一緒に連れて、優真の実家に帰っていた。そしてもう、新学期が始まる。
 今日には優真もこの部屋を出て行かないと、次の者が来て、もうこの部屋を使うはずだった。綺麗に掃除をして、最後に残した荷物をまとめて……優真はトランク一つに収まった荷物を見下ろした。
 荷物と一緒に、思い出も詰め込まれた四角い鞄。目を閉じれば、アルメイスに降り立った日から今日までの間の出来事が、目蓋の裏を流れていく。なんでもない穏やかな日々。その最後のほうに現れた顔が、この旅支度の原因だ。その出会いがなかったなら、もう少しここにいようと思ったかもしれなかった。
「優真、支度できた?」
 気がつくと、シャルティールが扉の所に立っていた。優真たちの出立と、部屋の明け渡しの連絡に、寮長のところへ行ってもらっていたのだ。優真の荷物を詰めるのに、少し時間がかかっていたので。
 リエラであるシャルティール自身の荷物は少なく、優真のものよりも小さな鞄が一つだけだ。それはもうまとめられて、優真のトランクの横に置かれている。
「はい」
 優真は、トランクケースの蓋をパタンと閉じた。
「じゃあもう、出たほうがいいかもね……列車の時間に遅れるよ」
「そうですね。シャル君、ありがとうございます」
 優真はシャルティールに向き直って、ぺこりと頭を下げる。
「なんだい……改まって」
「今、時間を教えてもらったからですよ」
「……そんなこと。いや、遅れたって良いんだよ。優真が帝都になんて行くことはないと、今だって思っているんだから」
「でも、教えてくれました」
「…………」
 シャルティールは黙り込んだ。優真はシャルティールの言葉が本心からでないことに気がついていたし、シャルティールも優真に気付かれていることは悟っているようだった。
「ありがとう、シャル君……大好きですよ」
「そんなこと……」
 にこりと屈託なく微笑む優真から、ふいと目を逸らして、シャルティールは応える。
「わかってるよ」
 優真にとっても、シャルティールにとっても……どちらにとっても、どこへ行っても、お互いは特別なのだ。それがフューリアと自存型リエラとの関係。どちらにとっても、優先するべき物はわかっている。
「優真のために僕がどうするかなんて、もうずいぶん前に決めてることさ」
 優真はそんなシャルティールに、もう一度微笑む。
「じゃあ、行きましょうか」
 そしてトランクを持ち上げた。
「その荷物は僕が持つから。優真は、僕のを持って」
 一度優真が手にしたトランクだったが、器用にシャルティールに横取りされて、優真の手からは消えてなくなった。もちろん優真のトランクのほうが重くて、シャルティールの鞄のほうが軽いからだ。返してとは言わずに、ありがとうと言って、優真は今度はシャルティールの鞄を持ち上げる。
 それから、二人は部屋を出て行った。
 それが、それなりに長い時間を過ごした場所との別れの時だった。

●新しい街
 古くて新しい街、それが帝都だ。
 歴史ある古い街並みの中に、次々と新しい建物と新しい蒸気機関が現れて、古いものをものすごい勢いで駆逐していく。夢を抱いて地方から流れ込んでくる人々と、夢破れて地方に流れていく人々。
 だがそこに住む人の大半の構成は、かなり長い時間に渡って変わらぬままだ。一握りのフューリアと、多数のエリア。一握りの上流階級と、かなりの数の庶民と、それなりの数の貧民。
 それらのギャップが、帝都という独特な街を形作っているようだった。
 優真とシャルティールは、一日の列車の旅を隔てて、そんな街に降り立った。二人とも帝都に降り立つことが、はじめてなわけではなかったが……
 優真は最後に帝都に降り立った時のことを考えて、なお戸惑った。前に帝都を訪れた時には、そんなに前ではなかったような気がしていたけれど、ずいぶんと様変わりしていて。
「この街はそういうところだからね」
 口には出さなかったけれど、優真の戸惑いを感じ取ったのか、シャルティールが答える。
「そうなんですか?」
 そう訊ねながら、優真は駅前の様子を見回した。なんだか、建築中の建物が多いような気がした。
 その視界の中に、屋根のない蒸気自動車が滑り込んでくる。車体は小型の乗り合い馬車より一回り小さいだろうかというその蒸気自動車の運転席には、ゴーグルをつけた黒髪の青年がいた。蒸気自動車は二人の前で停まって。
「迎えが遅くなってごめん」
 蒸気自動車の運転席で、ゴーグルを額にずらしてサウルが微笑んでいた。
「サウルさん」
「遅くなったって言うのに、僕の都合で悪いんだけど、あんまり時間がないんだ。乗ってくれるかい?」
 サウルは中から扉を開けて、後部座席に二人を招く。
「はい……お仕事中なんですか?」
「うん、まあ。本当は僕が行くようなことじゃないんだけど。春先は色々人手が少なくてね」
 優真が後部座席に乗り込むと、続けて憮然とした表情でシャルティールがその隣に座る。荷物を座席の後ろに置くと、蒸気自動車は発進した。
「きゃ」
 それほどのスピードは出ていないようなのに、優真は思いがけず強い風に煽られて、目を閉じた。柔らかな栗色の長い髪が、後ろへたなびく。シャルティールは何も言わなかったが、表情は不快さを示していた。
「あ、ごめん! これつけるといいよ」
 風に煽られている二人に気付いて、サウルが運転しながら、後ろへ二人分のゴーグルを差し出す。
「ま、前! 前見ていてください!」
 慌ててそのゴーグルを受け取って、優真はサウルに前を向かせた。
「まだ馬車より遅いくらいだから、ぶつかってくるものはいないと思うけど……」
「油断しちゃダメです。あ……でも、本当にまだ馬車より遅いんですね」
 優真はシャルティールにゴーグルを渡すと、自分もつけて……そこでやっとまた周りを見回して、並走して走っている馬車とのスピードの差に気がつく。
「もっと速い気がしてました」
「屋根がないからだね。馬車も御者台だとこんなだけど……軽くするために屋根を取っちゃったらしいんだ。乗りにくくて好きじゃないんだけどね」
「アルメイスでしか、蒸気自動車なんて走ってないかと思ってました」
「僕もガイネ=ハイトとアルメイスでしか見たことないな」
 笑いを含んだ声で、サウルが答える。
「ガイネ=ハイトで見るようになったのも最近だし」
「新しく入ってきたんでしょうか? そう言えば、夏に来たときよりも駅前の様子が変わっていてびっくりしました。工事中も多かったですし……」
「雪が降らなくなってきたから、一斉に工事を始めたからだろうね。変わったところは雪が降る前……秋口に工事をしたんだろう。もう少しすると落ち着くよ。駅の周りは、春と秋はいつも工事をしている気がするな」
 そうなんですね、と優真が答え。そう言っている間に駅前の広い石畳の大通りを抜けて、通りの一つに入った。両脇には背の高い建物で、一階には洒落た店やカフェ、お菓子の屋台が並んでいる。その前を通り過ぎ、建物が少しずつ背が低くなっていって、店が少なくなっていく。空き地もやや目に付くようになってきて、その通りが終わるだろうかというところまで来て……
 彼らを乗せた蒸気自動車は停止した。別に燃料切れや故障というわけではない。そこが目的地のようだった。両隣は空き地という、通り外れの古臭い建物だ。階段は建物の中にあって、何の芸もない集合住宅のように見えた。

●一人より二人で
「ここだよ」
「ここですか?」
 蒸気自動車から降りて、優真は建物を見上げる。
「うん……僕も引越したばっかりで、中はあんまり片付いてないんだけど」
「そうなんですか?」
 これから住み込みで優真もシャルティールもここで暮らすのだが、サウルが今までどこでどう暮らしていたかは、実はよく知らない。引っ越したというのも、初耳だった。荷物は確かに、ここに送ったはずだったが。
「住み込みのお手伝いを雇うのに、独身寮じゃまずいって言うんでね。少し広い社宅に移ったんだ」
「……もしかして、わたしたちが来たせいで、前のおうちを追い出されたんですか?」
 優真にしてみれば、当然の発想だった。
 ここに来る、それは自分で決めて。サウルとも話して、決めたことだったけれど。もしかしたらとても迷惑なことだったのではないかと考えもする。
「え?」
 だが、サウルは驚いたように優真を見返した。
「いやまあ、追い出されたと言ったらそうなるのかもしれないけど、建物が変わっただけで、家賃で困るわけでもないし」
 それから、何も気にすることはないと笑う。
「この機会に家を買えとかも言われたけど、移るだけで済んじゃったしね」
 サウル自身の歳は若いが、身分と立場を鑑みれば、持ち家の一つや二つはあってもおかしくはない。なのに社宅で済ましているのがけちくさいという見方もあるだろう。本人曰く「収入には見合っている」そうだが。
「本当に気にしなくていいよ」
「そうですか? それなら良いのですけど」
 わずかに安堵しながら、優真はここに来るに当たっての気持ちを振り返っていた。ここ……サウルの家に来ると決めてから、ずいぶん時間があったので、色々と考えてもいた。
 あえて、何も権利も義務もない立場で、サウルの近くにいることにしたのか。それは、立場に縛られてサウルにはできないことがあるからだ。それを倦み厭うていても、サウルは立場から逃れられない。それは誰にも、サウル自身にも、どうしようもないことで。だから……何にも縛られない立場でいることで、サウルの代わりにできることがあるのではないかと考えたのだ。
 何でもできるわけではない、たくさんできるわけでもない。でも何か……
 ただの織原優真にできることが、あるかもしれないから。
 そしてサウルには何もない何も関係のない立場から、好意を示す者が必要でもあると。そう思ってもいたので。サウルを気遣う者はいても、何か別の利害関係があれば、サウルは純粋にそれを受け止めることができないので……
 他人の好意に期待することを諦めない、そんな基本的な人を信じる気持ちを取り戻してもらえたらと。もう少し、自分を大切にすることを思い出してもらえたら、と。
「ここに、サウルさんとわたしと、シャル君で……?」
 漂う心が戻ってくると、優真は訊ねた。
「いや、もう一人同居人がいるんだ。勝手に決めて、申し訳なかったけど」
 広すぎるので、カールも一緒だとサウルは言った。知った名前が出てきて、優真は我がことのように嬉しそうにうなずく。
「カールさんもご一緒なんですね」
 そうして、重そうな木の扉を開け、中に入る。三階分ほど吹き抜けの玄関ホールから階段が上に向かっていた。そこを昇って行って、二階の一角に向かう。
「僕とカールは夜帰ってきて、ここで寝ることは少ないかもしれないけど……夕飯時に帰ってきたり、朝帰ってきたりはするから、簡単に食べられるものを作り置いてもらえると嬉しいかな」
 部屋の鍵を開けながら、サウルは言った。
 そして中に入る。
 そして……
「サウルさん、これ、わたしの荷物だけじゃないですよね?」
 リビングには引っ越しの後、開けていないと思われる包みや箱が散乱していた。
「引っ越した後、片付けてる時間がなくてね……」
 困ったようなな笑みを浮かべつつ、足元の荷物を避けながら、サウルは奥に進む。その後について行って、優真も奥を覗いた。左手にキッチンがあって、ここにも荷物が少し詰まれている。
「ここにある荷物は台所のものですか?」
「一応、そのはず……だね」
 更に奥に洗面所と浴室があった。その向こうに寝室が一つ。リビングの反対側にある廊下に入ると、そこにも寝室が三つある。
「ずいぶん広いですね」
「住む人数はわかってたからね……ええと、こっち側の寝室のどれかを一人ずつ使ってくれるかい? 家具とベッドは入ってるから、自分の荷物を入れて整理して」
 寝室にはさすがに荷物はなく、リビングに詰まれている中から持ってきて開けるようにと言うことだった。
 家の中の説明を一通り終えると、サウルは懐中時計を確認した。時間を見て。
「ごめん、僕はそろそろ行かないといけなさそうだ」
「お仕事なんですね」
「うん。まあ、さっきも言ったけど大したことないよ。貴族の奥様の愚痴を聞いてくるだけさ」
 その貴族の夫人は被害の訴えを出したが、思い通りにはならなかったらしい。そんなことはよくあるのだろうかと思いながら、優真は話を聞いていた。
 そして、どうして思い通りにならなかったのかを説明せよと言ってきたというわけのようだ。結局はいびられに行く役目を他に押し付けきれずに、サウルが行くことになったらしい……というところまで聞いて、サウルらしいと優真は溜め息をついた。
「時間があったら、片付けをしておいてくれるかな」
 そしてそう言って、出て行こうとするサウルの隣に優真は並んだ。
「……何?」
「一緒に行ってもいいですか?」
「ええ? でも、片付けは」
「帰ってきてから、ちゃんとします」
 にっこり笑って、優真は先に扉のほうへと向かった。
「一人より二人のほうが、気持ちは沈まないと思うので……そばにいるしかできないかもしれませんが」
 そんな優真をサウルはじっと見て……
「そうかもしれないな。ありがとう」
 微笑んだ。そして、扉に向かって歩き出す。
 シャルティールも、黙って後ろについてくる。
 扉をくぐり、鍵をしめて。

 ――ここから出かけて、ここに帰ってくる、そういう日々が始まったのだ。

 蒸気自動車が、再び走り出した。
「帰ってきたら、あの荷物をお片付けしましょう。片付けも、一人より二人、二人より三人のほうが速く進みますしね?」
「そういう意味だったのかい……?」

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