●夏の大売出し
アルメイスの繁華街と言えば、微風通りだろう。それ以外には大きな商店街はないと言うのが正しいかもしれないが。ともあれ、学生の身で必要になるようなものは、ここに来れば大概のものならば揃う。
初夏の風のさわやかな日、ナギリエッタはエリスと一緒に商店街に買い物に来ていた。
商店街の各店の軒先には、『夏の大売出し』と書かれた旗がひらひらと舞っている。バーゲンの時期なのだ。
「うーん……どんなのにするぅ? エリス〜」
通りをぶらぶら、店先を眺めて歩く。ウインドウ・ショッピングの一番の楽しみはこの時間にあるだろうか。
「そうね…安いので、ひと夏はもつものがいいけど」
そして目的がまったくないわけじゃない。短い夏に着るための、新しいシャツを探しているのだ。上は制服で事足りるけれど、中のシャツは用意しなくてはならない。昨年のものはもちろんあるが、段々古く痛んでいくので、新しいものも補充が必要だった。そして、もちろんエリスはけして金持ちではないし、ナギリエッタも平均以上に裕福なわけではない。
二人は結局、ブティックの店先に出された赤札の夏物のシャツを、一つ一つ細かく検分するところから始め。エリスは安くて仕立てのしっかりしたものを、ナギリエッタは安くて可愛いものを、それぞれ一枚買った。
「はい、おつりと福引の補助券だよ」
店の女主人が小銭と共に紙片を一枚ずつくれる。二枚で福引が一回できるようだった。
「ナギリエッタ」
「なに? エリス」
「あげる」
右から左へ補助券は移動して、ナギリエッタの手で二枚になった。
「いいの? 福引できるょ?」
「二枚で一回なら、ナギリエッタが引くといいわ」
そう言いながら、エリスはもう歩き始めていた。ナギリエッタはそれを追いかけて。
「福引所はいつものところかしらね」
「じゃないかなぁ」
いいよと返しそびれて、ナギリエッタは補助券を二枚握ったまま前方を見やった。
いつもの福引所が見えてくると、何人かその前に人がいる。ガラガラと特有のあの音がしているので、福引は絶賛開催中らしい。
その前まで来ると、エリスがぐいとナギリエッタの背を押して前に出した。
「お嬢ちゃん、福引かい?」
「ぅ、うん」
補助券を二枚渡して、一回だよと言われる。ナギリエッタはおずおずと取っ手を握ると、顔を上げた。
紙が貼ってあって、そこに賞品が書かれている。特賞は『ジルミードの海水浴場への旅、七日間ペアチケット』らしい。行くのに一日半だか二日だかかかるので、正味向こうにいる時間は3日ほどだろうが、ずいぶん豪華な賞品であることは確かだった。
「えぃ!」
ナギリエッタは目を瞑って、勢いよく福引の箱を回した。特賞ではなくても、良い物が当たりますように、と祈りながら。券の半分はエリスのものなのだから、良い物が当たったらエリスにあげるつもりで。
ガラガラガラ……カラン。玉の落ちる軽い音がして。
カランカランカラン!
「おめでとうございます! 特賞『ジルミードの海水浴場への旅、七日間ペアチケット』!」
「ぇ……」
鐘の音に驚いてナギリエッタが目を開けると、目の前には金色の玉が転がっていた。
●水の中の……
ペアチケットの同行者には、悩むことはなかった。その半分はエリスの権利なのだから、これはナギリエッタとエリスの二人で出かければいい。
問題は、と言うと。
「ナギリエッタ、泳げた……?」
エリスが疑問形で訊ねた通り。ナギリエッタは泳げないのだ。
ナギリエッタが大きく首を横に振って答えると、エリスはいつもの無表情の中に僅かに困ったような気配を浮かべる。
「練習したほうがいいかなぁ?」
「したほうが良いんじゃないかしら」
水着は持ってたわね? と訊かれて、ナギリエッタはこくりと頷いた。
「じゃあ、行くのは夏休みに入ってからだし……それまで、温水プールで練習を」
「うん……行くまでには、ちゃんと泳げるようになるょ」
「水が怖くないなら、きっと難しくはないわ。教えてあげるから」
「エリスが教えてくれるなら、大丈夫だね!」
「きちんと準備運動してウォームアップしてから水に入って、長時間無理をして泳がなければ、溺れることは普通ないと思うわ。足のつかない所に行かなければ」
プールも海も基本は同じだろう。足がつく場所でなら、慌てず、無理をしなければ、まず溺れない。
「じゃあ、明日は放課後にプールで待ち合わせね」
エリスがさっさと翌日の予定を決めてしまったが、ナギリエッタには異論はなかった。エリスが教えてくれるなら、願ったり叶ったりだ。
翌日、ナギリエッタは温水プールに着くと入口の前で辺りを見回した。エリスの姿は近くにない。
そういえば、と思い返す。プールで待ち合わせとは言ったが、プールのどこかは決めていなかった。
もしかしたら、プールサイドかもしれない……
ナギリエッタはしばし考え込んでから、扉を開けた。仮に後からエリスが入口まで来たとしても、ナギリエッタが入口にいなければ中にいるかもしれないとは考えるだろうと思って。
更衣室で手早く紺のスクール水着に着替えて、プールサイドに出る。
やっぱりそこにも、エリスはいなかった。そこで時計を見ることはできなかったが、ナギリエッタが少し早く来すぎたのかもしれない。
そう思って、ナギリエッタはプールサイドから水面を覗いた。端は深くはなさそうである。
手を伸ばして、水に触れてみた。水が少し冷たく感じるのは、外気が暑いせいだろうか。もう短い春が過ぎ行き、夏の気配が漂い始めたせいだろうか。
冷たさは心地よかった。
昨日のエリスの言葉を思い出す。
――溺れることは普通ないと思うわ。足がつかない所にいかなければ。
なら、一人で入っても平気だろう。
一人で練習して、もしエリスが来る前に泳げるようになっていたら、どんなにエリスは驚くだろう。一人で頑張ったナギリエッタを、きっと褒めてくれるだろう。エリスは努力の人だから、他人の努力にも好意的だ。
それは抗い難いほどに魅力的な未来予想図で、ナギリエッタは思い切って水の中に飛び込んだ。
ざぶん。
水に入るコツを知らないナギリエッタだからか、派手に飛沫が上がる。
水はやっぱり冷たかった。
下に着いたと思った瞬間、足が滑る――足が言うことをきかない。ぐっと緊張するような痛みを感じたのは、その後だった。
そのときには、もう体は水に沈んでいる。頭のてっぺんまで水に入って、吐いた息がナギリエッタの視界を覆った。上と下がわからなくなって、床も壁もない水の世界に落ちたような錯覚に囚われる。
溺れている。
またワンテンポ遅く、気がついた。
水面を目指して暴れて、手を伸ばして。
明るかった視界が、不意に暗くなる。
もぅダメだ――
それは意識が遠のきゆくせいだと思って、内心覚悟したとき。
「ナギリエッタ!」
その声と共に、水面が下がった。
いや、ナギリエッタが持ち上げられたのだ。
「ナギリエッタ……」
息ができることに安堵する前に、とにかく飲みかけた水を吐く。
「どうして足のつくところで溺れられるの」
息はまだ乱れていたが、目の前にいるのがエリスで、同じく水の中に立つエリスに持ち上げられていることまで理解する。見回せば、やっぱりそこはプールの端っこだった。足を伸ばせば、簡単に床に触れる。
「あ……アレ?」
「…………」
「足が攣っちゃって……」
笑って誤魔化すしかなくて、ナギリエッタはぽりぽりと頭を描いた。
「準備運動はした? ナギリエッタ」
「……あ」
思い出した。エリスが昨日言っていたことは……
――きちんと準備運動してウォームアップしてから水に入って、長時間無理をして泳がなければ、溺れることは普通ないと思うわ。足のつかない所に行かなければ。
先ほどは後半しか思い出さなかったが。条件付だったのだ。
「忘れてたわね?」
ふう、とエリスが溜息をついた。
「ご、ごめん〜、エリス〜」
この相も変わらず迂闊な娘には、泳ぎをきちんと教えるまでは目を離すことはできないらしいという表情で、エリスはもう一度溜息をついた。 |