■番外6ミニゲーム:蒼雪祭〜過去の幻影〜■

 また、蒼雪祭の準備をする季節が近づいていた。毎年、年に一度のお祭りのために学生たちは自分で出展や出店の準備をする。舞台発表から喫茶店まで、それは多岐に渡っていた。
 今年もそれは同様であったけれど。
 そんな準備が始まった頃から、少し変な噂が学園に流れていた。
 ――奇跡の卵が再び売られる、と。
 フューリア能力を高める力のある、奇跡の卵。長い訓練を積まなくては得られない技も、それによって閃くように得られるという。
 それは蒼雪祭で。学園の目を盗んで――

「奇跡の卵って知っているかしら」
 カフェにルーがしょっちゅう姿を見せるという、珍しいことをし始め。そんな話をするようになったのは、そんな噂が流れ始めてから、しばらくしてのことだった。
 奇跡の卵って? と、多くの学生は聞き返すことになる。古参の学生は知っているが、そうでなければ、そんなものが存在していたことも知らない。
「奇跡の卵は、心を乱す危険な薬なんです……」
 それは情熱的に、あるいは頑なに、あるいは利己的に、あるいは無謀なまでに……様々な方面に酷く性格を偏らせる精神に作用する薬だとルーは言う。
「一見、フューリアとしての能力が伸びたような錯覚に陥るけど……実は違うんです。偏って伸びた以上に他の部分が磨耗して、トータルに見るとダメになっているの。元に戻そうとして、磨耗したところを補うような『卵』を使うと、今度はまた別の部分が磨耗していって」
 どんどんダメになっていく。
 つまり、伸びる部分より、落ちる部分のほうが大きいのだ。
「うっかり都合の良いところにばかり目を向けていると、卵の罠にはまるの……命に別状はないけど、使えば大概の人は成績が落ちていくんです」
 気がついたら取り返しがつかなくなっている、らしい。命は失われないが、能力は恐ろしいスピードで落ちていくようだ。もちろん、能力と共に、成績も。
 何故、そんな話をするかと問えば。
「……もう、卵のことを憶えている人が減ってきたから……昔も、勝手のわからない新入生が一番、卵に溺れて、後悔してたから」
 奇跡の卵が再び出回るという噂を聞いて、ルーはその対策に、自ら卵が危険であるという噂を流すことにしたらしい。
「この噂を流して、効果があるかどうかはわからないけど……」
 買い手が危険であると知っていれば、少しは抑止力になるのではないかと、そう考えたようだった。

 卵に関する二つの噂はゆっくりと広まっていた。
 ルーは変わらず、カフェにいた。マイヤを動かして、もっと大きく危険を知らしめるべきかをずっと迷っていたようだったが、まだ実行には移していない。それをすると広がることを望まぬ噂も、加速されてしまうことがわかっていたからだ。
「……時間ある、かしら?」
 だが、あるときから、こんな相談も持ちかけ始めた。
「蒼雪祭で、奇跡の卵を売っている人を見かけたら、教えて欲しいの」
 あるいは。
「販売を止められると良いんだけど……」
 昔はラーナ教の教会や神殿が売っていたのだが、今回のことには教会は表立っては関係がないらしい。そういうルートはもう調べたようだ。
 蒼雪祭で売られるとあって、学生が関与している可能性が高い。
 奇跡の卵が販売禁止になったのは4年前。
 どこかに、回収しそびれた卵が眠っていたのだろうか――

 蒼雪祭の準備が進む中、噂は流れて続けていた。

●双樹会事務室
 事務室と会長室は違うというのは瑣末なことだろう。蒼雪祭の準備が始まったので、双樹会会長のマイヤも一日の半分はこちらにいた。授業にはいつ出ているんだというツッコミが入りそうだが、そこは上手く必修授業はクリアしているらしい。
 そしてマイヤのいるところ、“深藍の冬凪”柊 細雪はいる……ことが多いが、今日はいない。先刻まではいた。だが、マイヤに挨拶をして出ていった。
 細雪はマイヤを主君として、忠義を努めている。マイヤは時々変人だが、概ね管理者としての能力は優秀で、主と仰ぐに不足はないだろう。細雪も生まれた楼国の習俗のままに生きているのでアルメイスでは変人の類だし、おかしさ加減はつりあっているかもしれない。
 さて最近のこととして、マイヤの更に主であるルーが生徒有志に協力を求めているという話は細雪も聞き及んでいた。マイヤ自身は深謀遠慮があるのだろうが、一切動いていない。だが、動く日も来るかもしれぬということは、予測できる未来予想図だった。
 ならば細雪はその日のためにと、出かけて行ったのである。マイヤには意図を告げたが、「いってらっしゃい、十分気をつけて」と送り出された。
 それと入れ替わるように、事務室には“ぐうたら”ナギリエッタとエリスが連れ立ってやってきた。
「出店の書類を持ってきたょ、よろしくおねがいします〜」
 ナギリエッタは蒼雪祭に出店するための書類を一揃い、提出する。
「はいはい、確認するからちょっと待ってよね」
 と、銀の飛跡”シルフィスがそれを受け取った。
「珍しいね、お手伝いなんだ?」
 と、ナギリエッタが受け付けをしているシルフィスに言うと、シルフィスは書類から目を離さずに答える。
「今回、演劇の企画が決まってないのよね。去年一昨年とトラブルもあったから、発起人が出ないっていうか……」
「シルフィス君が発起人になっても良いんじゃないかと思いますけどね」
 と別の書類に目を通していたマイヤが言う。
「今からなら間に合いますよ。役者を揃えるのが大変なら、最近は一人芝居なんていうものもあるようですし」
 そうねえ、と考え込んでいる間に、書類のチェックは終わったようだ。
「とりあえず揃ってるわね。あなたたち二人で、小物を扱うファンシーショップで、名前は『黒箱屋』ね」
 でも、とシルフィスは笑う。
「なんだか怪しい名前ね」
「……私はその名前はやめたほうが良いんじゃないかって言ったんだけど」
 と、相変わらず淡々とした口調でエリスが言う。
「怪しいお店みたいだわ」
「ぇ、そうかなぁ……何が入ってるかわからないからブラックボックスとか、そういう意味じゃないょ……?」
 ええー、とナギリエッタはおろおろする。
「まあ、いいんだけど。大丈夫でしょうし」
 そう言うエリスにシルフィスも「あなたが一緒だし、大丈夫でしょうね」と応じて。
 それで、二人は事務室を出た。
「エリスはやっぱりいやだった?」
「いいえ」
 エリスは即答したので、ナギリエッタはほっとする。
「一人でするよりずっとマシね。でも無茶はだめよ?」
「うん、わかってるょ。噂の調査も、ちゃんと気をつけるょ……やっぱり少し、危険な気はするから、エリスが付き合ってくれるのは嬉しいな」
「なら良いわ。これから微風通りに小物の買い付けに行くのよね?」
「うん。街で卵以外の噂が聞けると良いんだけど……ね」
 卵以外の噂、とナギリエッタは言った。
 ナギリエッタは卵の噂は隠れ蓑で、他に何か別の取引があると思っていたのだ。

 ナギリエッタたちが出て行った後、次に事務室を訪れたのは“紫紺の騎士”エグザスだった。
「こんなところに」
 と妹を見て言う。
「それはこっちの台詞だわ。蒼雪祭の申請に来たってわけじゃないでしょうに?」
「私はマイヤ殿がこちらだと聞いたから来ただけだ。……マイヤ殿」
 奥側いるマイヤの元まで行って、エグザスは顔を上げたマイヤに話し始めた。
「例の噂についてなのだが」
 他に聞くのが妹だけであったのは、エグザスにとっては幸いだっただろう。
「囮のようなことをしようと思っているが、その……卵を得たいということが本意ではないということは、あらかじめお話しておこうと思って」
 座ったままのマイヤはエグザスの顔を見上げ、表情を変えずに答えた。
「承っておきましょう。まあ、逐一報告などはなくとも、浅慮なことはしませんよ」
 判断はマイヤが下すわけではないということだろう。
 それで、エグザスが事務室を出て行こうとしたとき。シルフィスが呼び止めた。
「囮ね、囮。気をつけるのね」
「言われなくとも……」
「違うわ。同じことを考えている人は多いだろうってことよ」
 自らが欲している素振りを見せて、魚を待つ者は多いらしい。こんなところにいると聞こえてしまう話もあるのだろうか。シルフィスのそれは、相手を見間違えれば、空ぶって本命の魚には逃げられるかもしれないという忠告だ。
「……心しておこう」
 そしてエグザスは事務室を出た。

●能力開発研究室にて
 “冒険BOY”テムは個人的に奇跡の卵への因縁を感じていた。少し前、テムはある女性から古い奇跡の卵を貰って、それを司祭のところに持って行って回収された経緯があった。その際に禁止された話を聞いたのである。
 それでまずテムは、能力開発研究室を訪ねてみた。ここなら卵についても知っているだろうと思ってだ。
「なんだい? 開発実験に参加するのかい?」
 研究室の建物がいくつも並ぶ中、能力開発研究室と蒸気開発研究室の二つは大きく、人の出入りも多い。特に能力開発研究室は研究者や教授だけでなく、被検体になる学生が多く訪ねてくるからだった。実験協力は自由意志でのことである。
 なので、テムが訪れるとやっぱりいきなりそちらの控え室に通されそうになった。
「あ、いえいえいえ。僕は今日は違うんだ」
 聞きたいことがあるんだと慌ててテムは切り出した。
「奇跡の卵についてなんだけど」
 相手をしてくれた研究員は、おや、という顔を見せる。
「何か噂でも聞いたかな」
 研究員も噂を聞いているのかもしれなかった。
「あれのことはあんまり話しちゃいけないことになってるんだけど、何が聞きたいんだい?」
「出所になるとしたら、どこなんだろうと思って」
「ここを疑ったのかな。だとしたら、違うと思うけどね。今はもちろん、昔もここでは作ってない物だし」
「ここで作ったものじゃないんだ?」
「あれは結構古い薬なんだよ、宗教絡みで」
 元々教会が専売権を持っているのだという。だから他では勝手には作れないのだと。
「作ろうと思えば作れるけど……でももし私が仮にこっそり作ったとしたら、学生に売ろうとはしないなあ」
 何故と問うと、研究員は笑って、もっと高く買ってくれる人がいるだろうからと言った。それがどこの誰かは言わなかったが、異なる使い道があるらしいことと、卵の効能の種類にはよるが闇ルートではとてつもない高値がつくらしいという話をする。
「金目当てで作って売るなら、その高く売れる卵を作って、売るだろう?」
「そうか……じゃあ、新しく作ったものじゃあないってことなのかな」
「そうだね、やっぱり古いものなのかな。それでも金儲けが目的なら、学生には売らないなあ」
 じゃあ、とテムも考える。金目当て以外の目的があるのか……と。

 エグザスもその頃、能力開発研究室の一隅にいた。だが、テムとは別の場所だ。エグザスはフランとイルズマリがこちらに来ていたので、追って訪ねて来ていたのだ。
「奇跡の卵ですか」
 聞いたことはあります、とフランは答えた。詳しかったのはイルズマリのほうで、歴史からこんこんと語ってくれた。教会で神に近づくために作られた薬だと。だが、生産については教会で行っているという以上の情報は得られなかった。
 後は、地道に噂を追いかけるしかないらしい……と判断せざるを得なかった。

●カフェの片隅で
「よう、こんなとこでなにやってんだ?」
 “黒い学生”ガッツはカフェにいた“陽気な隠者”ラザルスの背中を叩いた。そのまま、前の席に座る。
「おお、ガッツ君も聞いたかの」
 卵の噂を、と、ラザルスは訊ねた。
「卵? 聞いたような、聞かないような」
 なんだそりゃ、と、問い返されたので、ラザルスは卵についての説明を始めた。メリットよりもデメリットを強く強調して。
「うへ、なんだそりゃ」
「そんなわけで、そんな物がバラ撒かれては大変じゃと、ルー君が調査してくれる人を求めとるんじゃな」
 ほれ、あそこで、と反対端のテーブルを指す。ルーを囲んで、“闇の輝星”ジークや“真白の闇姫”連理が何か話しているようだった。
「くだらねぇ、俺には関係ないね」
 そちらを見て、ガッツはひらひらと手を振る。勝手にやってろ、ってなものだ。
「そんなことより、蒼雪祭のグループの出し物なんだが、去年一昨年とか何やってたんだ?」
「ふむ? そうじゃな」
 と、ラザルスが説明し始めた中に、ゴスロリとかメイドとかネコミミとかいう単語が混じり出したところで、ガッツはそそくさと席を立った。
「……俺、奇跡の卵とやらの調査に行ってくるわ」
「なんじゃ、これからがいいところなのに」

 さてそんな間も反対端のテーブルでは、思惑はそれぞれだがルーに力を貸そうという者が話をしていたわけだが。テーブルについていたのは、肝心のルーの他に連理とジーク、そしてカレンだ。
 ジークは奇跡の卵のようなものに頼って力を得るのは、己の信念に反するからと。カレンがそれに付き合うことにしたのは、放っておけば手のかかる主が真っ先にそういう物の罠に引っかかりそうだからだ。連理はルーに対する好意三割、恩を売っておこうという打算が三割、無事に蒼雪祭を優真と過ごす邪魔をされては敵わないという警戒が四割というところだった。
 で、まずはルーからもっと詳しい話が聞こうと、ここにいるわけである。
「回収前に学園外に持ち出された形跡というのはなかったのかの?」
「形跡は掴めていないけれど、ありえないとは言えないわ」
 ルーは今日はきびきび答えていた。これが割合素に近い喋り方らしい。
 ルーによれば奇跡の卵は刑務所か、アルメイスでしか意味はないと言う。後は闇社会か。
「あまり大きな声では言いたくないのだけど……力を貸してくれるって言う、あなたたちを信用するわ。このアルメイス内部では取り扱いを禁止しているものだけど、帝国全体で見たら、あれは完全に違法なものじゃあないのよ」
「……そいつはまた厄介だな」
 ジークは目を細める。
「性格が歪むものだから、いずれ劇物扱いではあるけれど。だから誰かに無理矢理使わせれば、毒を盛ったのと同じ罪にはなるわ。でも、医師と教会の同意の元で性格矯正に使うようなケースもあるわね」
 一時的に能力を引き上げたように見せかけ、実は総合的には弱くなる薬で、命には別状はない。それが奇跡の卵の一般的な認識だが、実は見方を変えると『たくさん使っても安全な洗脳薬』でもある。
 凶暴で慈悲のない者に慈悲の心を持たせたり、凶暴な部分を和らげたりする。尖った性格から、丸い穏やかな性格へ。強制的な性格変更には議論もあるが、今はやむをえないとされている。それは、凶悪な犯罪者などに使われるからだ。エリアなら能力が云々などは気にしなくても良いし、フューリアの犯罪者なら弱体化することは歓迎するべきだろう。そのままではどうやっても更生することができないという段階ではあるが、フューリアの場合その上は死刑なので、それよりは穏やかな対処であるとも言える。
 だから、薬として現在も生産されてはいるのだという。世に存在しない物ではないのだ。
「闇社会は……語る意味はないわね。弱者が虐げられているのは気に入らないけど、撲滅するのに時間がかかることは理解できるし」
 撲滅は難しいでしょうね、と嫌そうにルーは言った。
 相当弱くてもフューリアは、エリアを脅すのに有効だ。自我を失わせて言うなりになるフューリアが作れれば、十分強大な力を得ることができる。
「そうやってね、『飼う』のよ、言うことを聞くフューリアを」
 闇社会に通じる金持ちがこっそりと。それは帝国の暗黒面の奥の奥にある話だ。
 この話に至ってカレンが目を逸らし気味なのは、カレンのような身分ある人に仕えることを生業にする一族は、そういう部分にも通じているからだろう。生まれながらに上に立つルーはそういったものを嫌って革命すら企んだ過去を持つが、カレンは生まれながらに従う立場でそれを厭うてはいないので、立場においても信念においても絶対に噛みあわない。
 だが、ここで衝突するほど二人とも大人気なくはなかったので、そのまま話は進む。
「今はそんなことにならないように、アルメイスにフューリアを全国から集めている……とも言えるわ」
「ひでえ薬だな」
 そう、ルーの横に立ったガッツが言った。
「なんで禁止になったのかをまず聞こうと思ったんだが……そりゃ、普通にアブねえな」
 近づいたところで話が聞こえたらしい。
「そもそも売ってたことが間違いなんじゃないのか?」
「……相当量飲まさないと、完全に洗脳できるところまではいかないわ。学生が騙して誰かに飲ますとしても、余程有り余る財力でもなければ、それは嫌がらせとかのレベルね」
 当時正規ルートで売買されていた物も、ものすごく高いものではなかったが、安いものでもなかったからだ。……カレンは再び目を逸らしている。
 当時禁止した経緯は、概ね深く効能を理解できずに使って自滅が多かったからだと言う。販売元というか、管理者はラーナ教会だったので、あからさまに悪用するようなケースには学園では至らなかったらしい。
「そうなっちゃった人からね、規制しろっていう声が上がって……禁止にね」
 そもそもルーは最初から販売には反対だったようで、それを口実にした節があるようだ。
 うーん、とガッツは唸った。禁止の過程には、今回のことのヒントは隠れてはいないようだった。
「しかし、聞けば聞くほど危ない薬じゃのう……自己責任で使え、ではすまんのじゃな」
 連理はこめかみを押さえた。
「自分の意思で使うなら、それで済むのかもしれないわね。それもけして良いとは思わないけど……命には関わらないだけで、やっぱり毒薬だもの。他人に無理矢理使わせたら、小さくても被害は出るし。万が一繰り返せば取り返しがつかないようなことにもなるし」
 ここまで言えば、今度は逆に利用してライバルを蹴落とそうなどと考える者が出てきかねない。一人辺り少量の取引だろうし、今回も安くは取引されないだろうが、アルメイスの中には金持ちもいる。なので、危険を促す噂を流した際にはここまでは言っていないのだ。だが、悪用しようと思ったなら悪用もできる劇物であることも事実だった。
「噂を流すのも、迷ったのよ。賢い人ならそれだけで気付くかもしれなかったから。でも、どうせ知ってる人は今でも知ってはいるし」
 なら、多くが知っていれば、飲む者も減るだろうし、知らずに飲まされる者も減るだろうという判断を下したようだった。
「しかしまあ、噂の限りでは、そういった使い道を推奨して売ろうというわけじゃないようだな」
 当初の噂には、奇跡の卵の利点しか述べられていなかったことをジークは思い出す。
「やはり、知らない者を騙すことが目的か」
 そう言って、考え込む。ジークは、奇跡の卵を売りに出す目的について考えていた。
「とにかく、危険じゃということはようわかったのじゃ。じゃが、それは今も生産されていて……今回売られるものは、必ずしも四年前に回収しそびれたものとは限らんのじゃな?」
 連理が念を押すように訊ねる。
「その可能性もないとは言えないわ。でも、それは確認したのよ。奇跡の卵自体は古くからあるもので、その配合レシピを持っていて、作っているのは伝統的にラーナ教会なの。作り方はわかっているから国立の研究施設でも生産できるけど、教会の既得権とか宗教がらみで、今も生産は教会でしているのよ」
 流通については聖職者の倫理と報告を信じるしかないが、ルーが調べた範囲では、生産量と使用量に怪しい矛盾はないらしい。多くは裁判を経て、神父か司祭の立会いの元で使われる。あるいは医師のカウンセリングや神父や司祭を経由して、病院や教会で使われる。かつてアルメイスでも、教会が窓口で使われていた。
 闇社会に流れるのは、手にした者が使わずに転売したような場合だ。ここで値はつりあがって、闇ルートを流れる正規品の奇跡の卵は高額商品らしい。ちなみに闇ルートには不正規品の奇跡の卵があるという噂はあるようだ。
「一番考えられるのは、四年前に回収できなかった奇跡の卵があったこと――それを今になって売り捌こうとしている可能性。二番目はどこかで最近手に入れた卵を、使わないで転売しようとしている人がいる可能性。三番目は、闇ルートに流れているって噂の不正規の卵が流れ込んできた可能性」
 だが、最後の可能性は限りなく低いとルーは見ているようだった。
 それはあるのではないかと思っていたジークは、意外な顔で理由を問う。
「どうして可能性が低いと思うんだ?」
「闇ルートでは高額商品なのよ。逆流させても、学生じゃ買えない値段がついてるの」
 フューリアを人身売買するような者が買う商品なので、値段が更につりあがるのだろう。
「安くして売る意味はないでしょう?」
 と、ルーは問い返す。
 だが、ジークはそれに反論した。
「それは目的次第だろう。蒼雪祭で卵を売って得をするのは誰かということだな」
 金目当てなら、確かに学生に売る意味はない。だが、それは第一と第二の可能性にも言えることなはずだと、ジークは主張した。
「考えてみると良い。いずれにせよ学生に売るより、闇ルートに流したほうが儲かるんだろう? じゃあ、金以外の目的があるんじゃないのか?」
 ルーは考え込む。
「……それは一理あるかもしれないわ」
「学園の中に四年の間眠っていたと思うのも、難しいことじゃな。出所はともかく、やはり外から入って来ると思うのが自然じゃろうて」
「そうね……」
 ジークはそこまでに考え付いた、この販売が上手く行ったとして得をする者は誰かを述べてみる。
「アルメイスに不利益をもたらす事で、学園長であるルーの権威の失墜を狙う国内の一味か。あるいは、フューリアの能力低下によって利益を得る外国の工作員……といったところか?」
 レシピさえ手に入れば、外国でだって奇跡の卵は作れるかもしれない。金さえ積めば、帝国国内の不正規な品を買い付けることも可能だろう。
「前者の心当たりは、俺が言うまでもないんじゃないか? 後者はかつてレアン・クルセアードがしていた仕事を、他の者がしないという保証はないってことだな」
「……そうね」
 ルーは目を伏せた。

 ジークとカレン、連理が席を立ってしまった後、残ったのガッツだった。どうも小難しい話で、口を挟めなかったようだ。ずっとその間飴を舐めて話を聞いていた。
 ふらふらと、そこにラザルスもやってくる。
「話は終わったのじゃろかの」
「うーん、終わったらしいな。一応」
「……まだ聞きたいことがあるなら、答えるけど……」
 ルーはガッツを見返す。いつものおとなしいルーに少し戻ったように、そっと窺うようにルーは言った。
「俺は卵とやらを全っ然知らねぇからさ。基本的なことを聞いていいか?」
「どうぞ……?」
「卵って、形は?」
「卵型」
「…………」
 まんまだ。
 気を取り直して、ガッツは続ける。
「色は?」
「色々ね。効能によって色が違うの。たくさん種類があるのよ。赤いのとか、黄色いのとか、緑色のとか、茶色いのとか……後は、青いの、白いの、黒いの、灰色の……だったわね」
「甘いのか?」
「…………」
 ルーは答えず、ガッツの目を見た。
「な、なんだよ! べ、別に甘かったら食べるとかそんなのじゃないからなっ!」
 その目に追われて、ガッツはツンっと顔を背ける。……デレはどこだ。
「ただ、興味本位で聞いただけだ」
「……甘くはないはずよ。食べたことないけど」
 そう言いながらも、ガッツはやっぱり残念そうな顔を見せた。
「料理法とかで無効にできんのかのー?」
「中和できたら、問題にならないわよ」
 今度はラザルスがボケるがやや弱い。ツッコミまで果たして、ルーは話を終わらせた。

●囮たちの成果
 “暇人”カルロは、噂を聞いては奇跡の卵の売られる場所を探していた。だが、それはなかなか容易なことではなかったようだ。噂に語られる場所は、ガセなのではないか……と途中で思い至る。
「足がつかないように、嘘の場所なのかな……それとも尾ひれがついちゃったのか」
 薬物マニアのカルロは、薬に頼ること危険をかえって知っていた。命に別状はないというのだって、実は怪しいと思っていた。確かに直接の影響はなかったとしても、心をいじるのならば、それを経由して体に影響はあるだろうと。
 薬に頼らなければ生きていけないという者がいることも、確かに知ってはいる。だが本当に必要なものでないなら、薬に頼るのはダメだとカルロは思っていた。強い薬は、使い方を誤れば、毒にしかならない。ルーに聞くまでもなく、そこまでカルロは知っていたのだ。
 そうやって、不幸になった人も。
 可能なら、奇跡の卵を見つけ出して消去できる力が欲しい……などと、本末転倒だな、と思いながらも、力を求める気持ちも理解できてしまったりもした。
「ロザリア、頼むよ」
 それでも情報を集めては、カルロはそれらしい場所を覗き見た。
 どうしても見つからないことに、焦りも感じながらも……
「これは、まだアルメイス内にはないってことなのかな……」
 という、答に行き着きかけていた。

 テムは時間があれば食堂にいて、卵の話をしていた。噂を信じて、卵を欲しがっているようだった。
 食堂では、エグザスは力を求めて思い悩んでいる様子だった。
 同じテーブルではまだ新入生らしい、見慣れない巻き毛の裕福そうな女学生が、恋の悩みを相席になった生徒に打ち明けていたりした。
「憧れの先輩に告白する勇気が出なくて……」
 彼女は自分の意気地のなさを呪って、何を引き換えにしても、どうしても勇気が欲しいと。
 そこに、『噂』を告げる生徒がいる。その奇跡の卵は、勇気を上げることもできるらしいと。
「そんなものがあるの? それは本当なの?」
 しょせん噂なので、多くの場合は『らしい』ということだとして終わってしまうが。
「誰に聞いたの……?」
 女学生は諦めきれない様子で食い下がっていた。

 テムとエグザスには核心に触れるような話をしてくる者はいなかった。
 おそらく、大勢に売りさばくような形ではないのだろう。噂を流し、真摯にそれを求める者を探しているのだ。それはテムが考えていたとおりではあったので、がっかりはしなかった。
 テムとエグザスが気になっていたのは、食堂で時折出会った新入生の女学生だった。思いつめている風で、彼女はデメリットがあるという噂を聞いても、すべてを飲み込んで欲しがりそうに思われた。
 ある日、エグザスが彼女を巡る噂話に耳をそばだてていると、奇跡の卵に関する新しい噂を聞くことができた。
「デメリットがあるってことだけど、そんな、大したものじゃないらしいよ。それと、本当は高いものだけど、本当に欲しいっていう人には安くしてくれるみたいだよ」
「そうなの?」

 彼女は一人になることも多かった。一人で思い悩むように歩いていると。
 食堂で噂話を聞かせてくれた一人が近づいてきた。
「ねえ、これ。本気なら行くといいよ」
 紙を一枚、彼女の手に押し付けて去っていく。
 それは蒼雪祭当日の日付の書かれた中央駅の切符だった。
 彼女は去っていく男子学生の後姿が見えなくなってから、後ろ手に持っていた生徒手帳を開いた。

 物陰から、それを覗く人影があった。
「……悪はあいつか!」
 “蒼空の黔鎧”ソウマである。目をこらして、切符を見て。
「中央駅か……つまりまだ、運ばれてきてないってことなんだな! 保管所がわからないはずだ!」
 カルロと同じくソウマも奇跡の卵の在り処を探して、見つけ出せなかったのである。

●密売人の真意
「仕入れにきたって人がいたの?」
 ナギリエッタは期待したような夜壌魂の取引のような噂は聞けなかったが、微風通りを小物の買い付けに回って、妙な話を一つだけ聞いた。
「仕入れ……アルメイスで何を?」
 エリスが店主の女性に聞くと、首を傾げる。
「さあ、そこまでは聞かなかったんだけどね。珍しい人だよね、蒸気機関か何かかしらね」
 アルメイスは生産能力の著しく低い都市で、蒸気機関の発明品のアイデアくらいしか他都市に出て行くものはない。だから商人たちはアルメイスに売りには来るが、買いに来るということはほとんどないのだ。
 では何を? と、ナギリエッタはエリスと顔を見合わせた。

 ジークとカレンは学園ではめぼしい情報が得られなかったため、リットランドまで足を伸ばしていた。変装も化粧もして、ブラックマーケットで奇跡の卵の購入をもちかける。
「今、品薄でねえ……」
「ないのか?」
「いや、あるところにはあるんですよ。ただまあ、ちょっと卸元がね」
「買占めか?」
「いや、なんか近いうちにたくさん使うらしくてね。うちは小売なんで、うちまで回ってこないんですよ。種類によっちゃ売ってくれるかもしれませんが」
 その夜、奇跡の卵を抱え込んでいるという卸元の屋敷に、ジークとカレンは侵入した。闇商人としては大物で、薬類の他に武器も人も扱うようだった。
「酷いところだ……」
 奇跡の卵とセットになっているのは、人身売買である。
「さすがにこれは……ね」
 カレンでさえも、屋敷の中の一角には不快感を示した。
 入り込んで調べても薬がどこから来てどこに流れていくかはわからなかったが、現物をいくつかちょろまかして、その足で二人は夜行列車に飛び乗った。相手の懐に長居しないのは鉄則だ。
「本当なら、もっとカレンと二人でのんびりしたかったけどな……」
 夜行列車は夜を徹して走り、朝にはアルメイスに着く。
 そんな小旅行の後、ルーのところに現物と、大物の闇商人が近いうちにたくさん使うと奇跡の卵をストックしているという話を持っていく。

「妾にそれを貸すのじゃ。予知してみよう」
 売り場を予知してみようと、ルーのところにいた連理が言う。連理もやはり奇跡の卵が運ばれてきたのならと在り処を追ったが、追いきれなかったのである。
 予知は最後の手段だ。
「……駅が見えるのぅ。列車じゃ」
「駅で取引……か?」
 ジークは首を傾げた。

「その生徒は、お金で雇われたのでしょうかね」
「過去を洗った限りでは、単独犯ではなさそうでござる。大量の奇跡の卵を個人的に大量に入手できるようなツテはなかったでござるな」
 生まれは貧民街で、アルメイスに来るまでは汚い仕事もしていたらしい。アルメイスに来た後も、貧乏で苦労はしているようだった。金目当て、という動機がしっくりくる人物だったと細雪は言う。
「噂を流して、繋ぎをつけるだけ……なのでしょうかね」
 マイヤは書類を置いて、考え込んだ。

●緩やかに近付く日に
「嫌な話だね」
 “春の魔女”織原 優真のもたらした話に、サウルは眉を顰めた。帝都にいるサウルの所には、そういう話は来ていなかったようだった。いや来ているも何も、かの卵が公に禁止されているのはアルメイスでのことなのだから、今見えている部分は独立都市に近いかの地でだけの事件なのだ。
 それだけならば、ルーの管理するべき事件。フューリアが狙われているのだとしても、そこまでならば、アルメイスに住むフューリアを保護する責任はルーにある。
 だがしかし誘拐事件、しかも人身売買が絡むとなれば話は別だ。闇商人の手でフューリアが売られた時点でか、あるいはそのフューリアが犯罪を犯すなら、それはサウルの管轄になる。
 管轄の重複は、いずこも面倒臭いものらしく。嫌な話だと言うのは、そこまで含んでのことだろうか。
「でも……このお話ってそういうことですよね。わたしの考えすぎでしたらいいんですけど……」
 優真は“真白の闇姫”連理から送られてきた手紙を手に、やはり微妙な表情で首を傾げる。
 連理からの手紙を読んでの、優真の予想はこうだ。奇跡の卵の噂を流し、それを欲しがった者を誘拐して、卵を使って洗脳して、売ってしまう……という。
 そして、集められた情報を聞いた者たちの予想は概ね同じ方向であったようだ。サウル宛にも、一通の手紙が届けられていた。その封を切りながらサウルは優真の話を聞き、そして読み終わった手紙を戻しながら答えた。
「少し早く行かないといけないかな」
 サウルは言った。出て行かないわけにはいかないようだと、サウルも考えはしたようだ。
「僕があまり口を突っ込むと、ルーが嫌がりそうだけど」
 ソファから立ち上がると、サウルは手紙を懐に仕舞った。旅支度の前に、職場に行かなくてはならないのだろう。
「いずれにせよわたし、ルーさんのところに行って、お手伝いしてこようと思います」
「先に行ってもらうかな……僕が行くのはもう少しかかりそうだし。これが事実なら、僕一人で行っても駄目だろうからね」
 頭だけが出ていっても、どうにもならない。手足が必要だが、それを連れて行くには時間がかかる。もっとも派手に支度をすれば、ルーとの確執が再燃しかねないこともあるだろう。ルーとしては内々に納めたいはずだった。
「じゃあ、一足先に行っていますね」
 優真はそれじゃあと言って、キッチンの方へ戻っていく。どこへ行くのかと上着を取ったサウルがそちらを見ると、優真は察したように振り返った。
「夕食は作ってから行きますから。旅行鞄も出しておきますね」

 蒼雪祭が近付いて、学園は賑やかさを増していた。あちこちで、とんてんかんとんてんかんと大工仕事の音がする。
「エリスぅ〜、この衣装でいいかなぁ〜」
 黒いローブ姿で“ぐうたら”ナギリエッタは、エリスの前でくるりと回って見せた。膝の辺りでローブがふわりと広がる。中に着ているのは制服だが、広がらないとスカートの端が見えるか見えないかというところだ。
 エリスは相変わらずあまり口数は多くなく、ナギリエッタの問いにうんと頷くだけで答えた。エリスは喋るときにはちゃんと喋るけれど、こういう時にどうこうと言うことは多くない。何も考えてないわけではないのだが。
 そんな様子を横目で見ながら、“黒い学生”ガッツは悩んでいた。グループの催し物の準備は順調に進んでいるらしい。
 ゴスロリだ。
 飾りつけもゴスロリだ。
 何がいいのか良くわからないがゴスロリだ。
 アルメイスにいる限りは逃れる方法はないような気がしていた。と言うか、理由なく逃亡したなら、後々面倒くさいような気がしていた。ここは胸はってできる言い訳が欲しいところなのだが。
 どうしようかと悩んで少し首を突っ込んでみた奇跡の卵の話は、難しくてよくわからない。いや、よくわからないというのは少し違うか。わかってはいるのだが、これ以上顔をつっこむのがやはり面倒臭い。
 考えて考えて、不意に思いついた。
「あ、そーか」
 言い訳が必要なだけなら、とりあえず駅に行けば良いのではないか。
 後は別に、見てるだけでもいいだろう。言い訳なんだから。
「俺って天才じゃね?」
 これなら当日も怖くはない。
 うし、と、足取りも軽くガッツはゴスロリ喫茶の準備をしているグループの占拠する一角に向かう。
 いや蒼雪祭本番が一日では終わらないことなどは、今のガッツにとっては小さなことだと思われていたようだった。

「優真!」
 連理は中央駅で優真を迎えた。帝都からは特急の列車でも一日かかる。各駅をすっ飛ばしてくる特急列車は、アルメイスの周りに幾つかある駅のうち、中央駅にしか停まらない。
 中央駅――そこは近いうちに事件の舞台になるはずの場所だったが、今日はまだ穏やかだった。
 優真の前に立った連理の息はあがっていた。走ってきたのだ。
「連理さん、ここまで迎えにいらっしゃらなくても」
 予定よりも早めにアルメイスに着くと決めた時に、優真は連理に宛てたその旨を知らせる手紙を速達で郵便屋に預けたが……それでも、手紙より先に優真自身がアルメイスに着いてしまう可能性の方が高かった。今のところ特急列車とよりも早い、連絡の方法がないからだ。なので、特急列車を使って移動するのなら、配達の必要な手紙より本人の方が先に着いてしまうことはままあることだった。
 多分現時点では、特に優れたフューリアのごく親しい人物間で交信するというのが、それを超える唯一の連絡時間短縮方法だが……限定的に過ぎるだろう。能力も疲労もかなりのものを要求する。蒸気機関の開発室ではもっと速い連絡手段を開発中らしいが、それが出回るのはまだ先のようだ。
 ともあれ、連理が手紙を受け取ったのは、やっぱりもう列車も着く直前のことだった。それで、中央駅まで走ってきたのだ。
「……妾が迎えに来たかったのじゃ」
 息切れを抑えて、それだけ言ってから、連理はふううと息をついた。それから、改めて優真とシャルティールを見て。
「二人なのじゃな。あの男、肝心な時に役に立たんの」
「サウルさんは、後から来ますから。すぐには準備できないそうですよ」
 だから身軽な自分が先に来たと、優真は微笑む。
「まずは休むかの?」
「荷物は置きましょうか……その後で、ルーさんのところに行きましょう」
「そうじゃな。妾も考えはあるのじゃ」
 試してみようと思っていることがあると連理は言った。

「なんか手伝えることはねーか?」
 ガッツが足を向けたのは“闇の輝星”ジークのところにだった。はっきり駅の捕り物に関りそうな人物をあげていった時に、ガッツに一番わかりやすかったのがジークだったわけだが。
 意外と言えば意外な人物からの申し出に、カフェでカレンと向かい合ってルオティーを飲んでいたジークは本当に目を丸くした。
「手伝う……か、俺たちが事前にできることはないな」
「何もねーの?」
「俺はあるとしたら当日だと思うが」
 ガッツは椅子を引いて腰を降ろすと。
「はちみつ」
 と、いつもの調子でメニューにないものを頼む。
「背後関係を調べるのは俺たちの仕事じゃないだろう」
 ルオティーを口に運びながら、運ばれてきたカップというか、ジョッキに注がれた琥珀色の液体を見詰めながら、ジークは言った。
「後始末も俺たちの仕事じゃない気がするな」
「じゃあ、なんだっていうんだよ?」
 琥珀色の液体は、はちみつにしては少しさらさらしていて、シロップで水増ししているのかもしれないと思う。飲みやすさもあるだろうが、多分原価の問題だろう。
 それが『ごくごく』と飲まれる様子から視線をやや外しつつ、ジークは答えた。
「多分、俺たちの仕事は当日だろう」
「列車に乗るのか」
「乗るのか? 乗らずに押さえたいところだが……切符を渡してるらしいからな」
 乗るかもしれないな、とジークは首を傾げた。
「……その前にすることは、本当にねーか?」
 深刻な表情で再度聞くガッツに、カレンのほうが僅かに首を傾げる。
「ずいぶん熱心なのね?」
「そいつは……」
 ガッツははちみつのジョッキを手に、視線を逸らした。
「それは?」
「ヒミツだ」
「……言ってくれたら、何か考えても良いけど」
 とてつもなく本末転倒な提案だったが、ガッツは揺れた。
「…………!」
 だいぶ考えた後。
「ゴスロリが」
「ゴスロリ?」
「ゴスロリなんだ」

 まあ結局やることはなくて、ガッツは泣く泣くゴスロリ喫茶の準備の手伝いに行ったらしい。

「外出許可証ですか」
 真面目ですね、とマイヤは“蒼空の黔鎧”ソウマに言った。さらさらと何か書きながら、蒼雪祭の日に本当に行くんですか、と問う。
「いや! 念のためだ!」
 駅で終わるならそれでいいが、ソウマは悪が逃げるならリットランドまで追うというつもりのようだ。止めても無駄だと思っているのか、マイヤはその場でアルメイスから出て遠方に行くための外出許可証を書き上げた。
 それを渡して。
「これで良いですか?」
「おう!」
 と、言うが速いか、会長室を出ていく。
 それを見送ってから、マイヤも薔薇の花束を持って出かけた。薔薇自体はマイヤが持っていて珍しい物でもないが、束で持っていることは少ない。行き先は病院だった。
 マイヤの近くにはいつも“深藍の冬凪”柊 細雪の姿がある……と思われていたが、ここのところ姿が見えなかった。数日の単位ではない。少し前から見えなくなって、一時戻ってきていたが、また見えなくなっていた……というところだろうか。
 実際にトータルすると、細雪がマイヤの近くにいる時間と、そうでない時間では、後者の方が長い。もちろん日常の細々した理由もあったが。マイヤのために働こうという細雪の目的を果たすには、近くに控えていない時間の方が長くなるものなのだろう。
 それでも細雪がいるのが普通だと思うようになるのは、細雪の姿や立ち居振る舞いの特異性が理由だろうか。いると目立つから、やっぱりいないと目立つのだ。
 細雪がいなくても特にマイヤの日常は変わらなかったが。
「無茶は良くないですよ」
 病室で花瓶に薔薇を生けて、サイドテーブルに置く。見舞い客は他にはいない。
「……この度は不覚でござった」
「君を止めても無駄だというのは、よくわかりますので、止めはしませんけれど」
 ベッドで座っているのは細雪だ。マイヤが病室に入った時点で起き上がったが、本当ならばまだ寝ているべき怪我人である。
「今回は幸運でした。戻ってこれたのですから」
 戻ってこられないまま人買いに売られなくて良かった、という意味だろうか。
「程々にしてくださいね」
「それがご命令とあらば、そのようにいたしまする」
「そうですね、死なない程度に……と思っていましたが、帰って来られる程度に、に修正しましょう」
「御意でござる」
 フューリアは回復も早いので、安静にしていれば程なく退院できるだろう。長居をするのはかえって回復に差し障ると、そこでマイヤは病室を出た。
「加減を決めるのは君ですが、七割くらいが多分ちょうどですよ」
 出て行くときに、マイヤはサイドテーブルに置かれたメモを一枚持っていった。奇跡の卵を取り扱う闇商人の名前と、その護衛についているというフューリアの名前が、そこには書かれていた。

「さて、闇主」
 呼び出された黒豹は主の少女を見上げた。
 ルーから受け取ったのは、鉛筆が一本。この事件に関わっていた生徒の鉛筆だった。いまだに彼の生徒は拘束されるでもなく、普通に生活を送っている。
「見せてくれるかのう、この主に関わる未来をの」
 見たところで、決まった未来しか見えそうにもないが……さて、それは賭けではあるわけだが。彼の行動もまた、なんらかの報酬があっての行動だろう。
 その最後の取引を観ることで、いずれ主犯が誰であるかを確認できるだろうか。細かな事だが、先にわかっていれば、ミスは防げる。
「そうじゃのぅ……行きすぎぬように願おうかの」
 捕まって叱られているところが見えてもどうしようもないと、連理は鉛筆を揺らした。

 蒼雪祭は大きなお祭りだ。
 色々な、多くの準備は、終わるのに前日の遅くまでかかった。
 そして、当日――

●駅の雑踏へ
「いらっしゃいませぇー」
 ナギリエッタとエリスの黒箱屋は、朝から順調に開店していた。
 蒼雪祭の名には相応しくないかもしれなかったが、その日は晴天だった。雪はひとひらも舞い降りぬ代わりに、空は抜けるように蒼く美しい澄んだ大気に満ちていた。
 すっきりと爽やかな……この世には何も悪いことなどないような、そんな錯覚を起こさせるような。それは錯覚に過ぎないのだが、この日においては、99%の生徒たちにはやっぱりそちらが真実なのかもしれなかった。
 黒箱屋の前には小さなテーブルが置かれて、黒猫のぬいぐるみが客を出迎えている。
 講堂で開催の挨拶をしてきたマイヤが、その前を通っていった。実行委員の詰め所に行くのでもなく、そのまま町の方へと出ていく。

 授業はないし、お祭りだから、どこに行っても良いということで町を歩いている生徒も多い。家族が見に来るようなこともあって、駅にも迎えの生徒の姿がちらほらと見られた。
 “暇人”カルロもそこにいた。カルロが来た時には、すでに中央駅の構内には何人かの生徒の姿があって、列車の到着を待っているようだった。
 カルロはこういう話は気に入らない、と思う。こういう話というのは、人の弱った心に付け込んで、奇跡の卵を売りつけるようなやり方だ。しかも、今回はそれだけでは終わらないかもしれない可能性も潜んでいた。
 知識のない者を食い物にして、害を為す。そういうものが嫌だと言うのは普通に正義感だと言えば、そうなのだが。焦点のあたっている物が薬であるという点が、よりカルロの気持ちをささくれさせているのかもしれなかった。
 カルロは駅でリットランドから来る列車を待っていたわけだったが、そこで特に隠れることもなく佇む優真と連理の姿を見た。話しかけるのはどうかと思ったが、向こうもカルロに気がついたようで、優真は目が合うと微笑んだ。多分実は他にもいるのだろうな、と思って見回すが……他の者は、直接見えるようなところにはいないようだった。
 やはりしばらく待って、カルロは時折あたりを見回した。
 外から見て、誰がただの家族の出迎えで、誰が奇跡の卵の取引に来た生徒なのかは区別がつかない。そわそわしているのも、列車の到着を待ち焦がれているのも、どちらにも当てはまりそうだったからだ。
 客の区別がつかないということは、列車に乗ってやって来るのであろう取引の相手にだって言えるだろうと思い、カルロは考え込む。相手には区別がつくのかと。
 そうしているところにガッツが来た。随分と大きなあめ玉を口に含んでいるのか、顔の形が変わっている。
 ガッツはどっかりとベンチに座って、やっぱり列車を待っているようだった。
 リットランドから来る列車は、予定では後いくらかで駅に着くはずだ。列車の予定は多くの場合狂うので、実際には後半刻くらいかかるかもしれない。
 そうやって待ち続ける中で、列車の到着予定時刻の直前にことは動き出した。

 列車を待っていた内気そうな男子生徒の肩を、駅に入ってきた一人の男子生徒が後ろから叩いた。先に列車を待っていた少年は幼く、後から来た男子生徒と歳はだいぶ違うようだったが、親しげに声をかける様は面識のない者のそれではなかった。
 生徒同士が二人。ああ、知り合いなのだろうな、と、何も知らぬ者ならば見逃してしまうような、些細なやり取り。
 だが知っている者は、その後から来た男子生徒がこの事件の首謀者と繋ぎを取っている……いわば現地のエージェントであることに気付いただろう。
 年かさの少年は少し近くを見回して、誰か別の者を探していたようだった。幼い少年は見えていたはずだけれど、それ以外の目的もあったようだった。それは多分、声をかけた女生徒を探していたのだろう。だがその女生徒は、駅には来なかったようだった。
 真っ先に彼の存在に気付いたのは、連理だった。これに関わっていた者ならば、彼の存在自体は誰もが知っていたわけだが……事前に、ちゃんと彼の顔まで確認して知りえた者は少なかったのである。エージェントを務める彼が、それがどこの誰なのかこの場でちゃんと知っていたのは、報告を受けていたルーとマイヤと彼についての予知をした連理だけだ。ある意味、小物と見られていたからだろうか。彼に関わるマークは薄かった。
 連理は気がつくと、優真に知らせ。
 そして優真は、彼が幼い男子生徒を連れて行くことを見逃すことはできなかった。

 実はホームの中ほどにある車掌室の中にマイヤは隠れていて、そしてその様子にも気付いてはいた。だが今は出るべき時ではないかと、こちらは動かなかったのである。
 列車に乗って来るであろう者が誰であるのかわかっていないからだ。どうも彼の後ろには闇商人が潜んでいるようだったが、今日のこの後に商人自身が姿を見せる保障はなかったし、その商人の顔さえ実はちゃんとわかっている者はいない。もし商人の代理人が来たとしたなら、彼が接触しなくては相手の特定すらできないかもしれない。
 だが、動く優真たちを止めることもできなかった。
 ちなみに狭いボックス型の車掌室の中には、他にジークとカレンとソウマがいた。人目につかず、ホームを見張れる場所なんてものは限られていて、誰が選んでも選択肢は概ね一つしかなかったのだ。
 事前にこの車掌室を空けておいてもらって、使用させてもらえるように手配していたのはマイヤで、ルーもここに待機する予定だったのだが。来て、扉を開けてみたら、もう車掌の待機していない車掌室にはソウマとジークとカレンが入り込んでいたというわけだった。
 通常、定員が一名の車掌室……信号を手旗で知らせたりするために車掌が列車の到着を待っている場所に篭っているには、三人でも十分に満員である。
 最初に入り込んだのはジークとカレンで、そこにソウマが来て、問答無用で同席したらしい。
 マイヤが来た時にはすでにそういう状態で、天を仰いだが。どうしようもない。ルーを詰め込むことは諦めた。でも、マイヤも諦めるわけにはいかなかったから、無理矢理四人目として狭い車掌室に入ったのである。
 ルーは今、駅長室にいる。少し離れていて、死角はできるが、姿を隠して近くにいるのにはそれしかなかった。
 ともあれ本来四人も入るような場所ではないから、今はみっちりと詰まっているような感じだった。機能と必要を優先する者ばかりだったから、誰もそのことについて文句は言わなかったが。
 ソウマはロールカーテンを下ろした小窓の下にしゃがみこんで、外を覗いていた。カーテンに遮られてすべてが見えているわけではなかったが、視界の端で優真が動いたのでソウマにも事件が動き始めたことはわかった。そして今動くべき時でないことはわかっていたが、手をこまねいている間に事がこじれてしまうなら飛び出していくつもりはあった。
 正義が腹の底でうずうずしている。
 それまでわかっているのか、両脇に立つマイヤとジークはソウマの肩に手を置いていた。二人は小窓の脇に立って、やはりロールカーテンの隙間から外を覗いている。
 カレンは覗ける場所がないので、反対側の壁にもたれていた。

「あの、どちらへ行かれるんですか?」
 優真が少年二人に話しかけた時点で、カルロとガッツにもその少年たちが今回の当事者であることには気がついていた。
 ガッツはまだ静観の構えだ。交信は上げていて、リエラのパックとあれやこれや……交信で罵倒しあっていたが、見た目の上ではまったく動かなかった。こちらも今は動く時ではないと踏まえていたのだろう。
 カルロはどうするかと思って、優真の動きを見守っていた。
「あんたは?」
 怪訝そうに年長の少年……商人の手先であろう、噂を流していた方が、優真に訊ねる。
「ええと、わたしは」
 優真は少し考えこんだ。他に同じ目的で来た者が駅にいるのは優真にもわかっていたけれど、さて他はまだ動かないらしい。
 口ごもっている間に、少年たちは線路の向こうを見て。
「あ」
 と呟いた。
 声に釣られて優真も振り返る。
 汽車が見えた。
 だんだんと近づいてくる。
「用がないなら、俺たち行くよ」
 年かさの少年が、幼い少年の手を強く引いた。
「待ってください。……無理に変わる必要はないんですよ」
 その引っ張られて行こうとする少年の手を、優真は捕らえた。
 両方から引かれる形になって、おろおろと幼い少年はきょろきょろする。優真の言葉に動揺したようだった。それは面識のないはずの女性に、知らないはずの内心を指摘されたからだろうか。
 年かさの少年は舌打ちして、幼い少年の手を強く引いた。
「ほら……もう来る。行かないと」
 列車はぼうぼうと大きな唸りを上げて、近付いてきていた。
 引っ張られていく少年を優真に引っ張り返すことはできず、優真はそのまま後ろについていく。少年たちは車掌室のボックスの前を通って、ホームの一番端へと向かっていた。
 カルロもその後ろについて、車掌室の向こうまで行く。車掌室自体がホームの大分端にあるので、それを越えるともう遮るものはなく、プラットホームに入ろうとしていた汽車が大きく風を起こしてすれ違っていった。
 ガッツもベンチから立ち上がり、歩き出す。その後ろで、車掌室の扉も開いた。

 列車の停車時間は結構長い。人の乗り降りの他に、貨物の積み下ろしもあるからだろう。
 ホームの一番端、最後尾の車両からはまず、どこか沈んだ目をした酷く痩せた女が一人降りてきた。それから肥った恰幅のいい中年男が戸口にいた。降りては来ない。中年男はいわゆる脂ぎった感じで、見た目から欲望の強さを感じさせた。
「坊や、中へ」
 女が幼い少年を列車の中へと誘う。フューリアなのだろうということは、事情を知ってここにいて、彼女を見た多くの者が察した。彼女は自我を奪い取られた、フューリアだ。闇商人の護衛。
 感情のすべてが磨耗しているわけではないのだろう、無表情な中に、女はどこか憐憫の色を浮かべて見えた。
 自分と同じ運命を辿るであろう未来に、思うところはあるのかもしれない。
 女は少年の手を取る。
 ――列車に乗ったら、連れて行かれる。
 最初に動いたのはカルロだった。その場にいた者には意外だったかもしれないが……そのまま女に飛び掛る。
 カルロは女に殴りかかり、少年と女を引き離すことに成功した。
 だが自我はないが、いやないからこそ、迷うこともなく彼女は災禍をなぎ払うだろう……一瞬にして交信レベルを上げようとしている女に対して、ホームの先端にいた者たちは一斉に動いた。まだ動く時ではないと思っていた者もいたが、やはり事態が動き始めてしまったならば、もう止められない。後戻りはできない。
 ガッツの手から飛んだナイフが女の肩に刺さる。それで集中力を殺いで交信を絶とうとしたが、女はわずかに顔を歪めただけで痛みに耐えたようだった。心の偏りが、どこかに突出したものを作っているのだろう。
 ソウマは風のように駆け抜ける。
 そして女の横をすり抜けた。
 女の意識を強く奪ったのは、自分が攻撃されることよりも横を通り抜けていくソウマの姿だったようだ。自身の後ろに、守らねばならない……そう命じられている、そう思い込んでいる、主人がいるからだろう。ソウマはそれを察して、主人の方を狙ったのだ。
 商人の動きは鈍かった。
 むろん、戦闘訓練を受けているソウマの動きについていけるはずもない。
 女が気を逸らした一瞬に、ジークとカレンが女に飛び掛った。
 手刀が二発、的確に急所に決まった。
 意識を奪われたなら、もうリエラも召喚はできない。
 ソウマは商人を押し倒して、絞め落とした。
 その上に影が落ちて――はっとソウマが顔を上げると、列車の繋ぎの通路に人が立っていた。
「僕の出番はなかったなあ」
 サウルがソウマを見下ろしている。この列車に乗ってきたのだろう。商人をマークしてきたのかもしれない。
 その通路の向こうも、一気に騒がしくなる。車両の中では、サウルの部下と車両に残っていた商人の手下たちの捕り物が始まったところだった。
「サウルさん――」
 ほっとしたように、優真が呼びかけた。
「さてと……背後関係を調べるのは、貴方の職分の内になるのかな、サウル卿?」
 ジークが気を失った女をを支えながら言うと、サウルは面倒臭そうに笑った。

●後の祭りに
 ソウマとカルロは、捕まった者たちが連行されていくのを駅のホームで見ていた。
 列車の都合があるので実際の捕り物からだいぶ時間がかかったが、それでも午後には帝都に向かう列車に乗る捕縛された商人と手下たち、それから意識を失ったままの護衛のフューリアを確認することができた。
「大丈夫なのか! 途中で目を醒ましたら」
 そこに力を打ち消すサウルの姿がなかったので、ソウマはやきもきしているようだ。
「……俺もいくか!」
「え、一緒に行くのかい? 切符は?」
 待ちなよ、とカルロが呼び止めても、ソウマは列車に乗り込もうとする。
「ソウマ君」
 そのカルロの横から、手が伸びた。ソウマの肩を掴む。
「大丈夫ですよ、心配しなくても……許可証、返してもらいにきましたが、ちょうど良かったですね」
 カルロがその手の主に視線を動かすと、マイヤが後ろに立っていた。学園から出る外出許可証をソウマから取り上げに来たらしい。
 ルーは相変わらず表立つことなく、成り行きを見届けて戻ったのだろう。連行される中に関わった男子生徒の姿はなかったし、マイヤもここまではいったんどこかに行っていたので……そちらを現在進行形で絞っているところなのかもしれない。
「そうか!」
 ソウマはいったん乗り込みかけた列車から降りて、懐から四つに畳んだ許可証を出
した。
 それをマイヤの手に渡しているところで――列車は汽笛を上げて動き出した。

「ここにいてよろしいんですか?」
 ゴスロリ喫茶のテーブルの一つを、優真と連理とシャルティール、そしてサウルの四人で囲んでいた。
「うん……」
 サウルはギクシャクとカップを置いていったゴスロリウェイトレスから随分目が離せなかったようで、優真の問いにも曖昧に答え……それは案の定、連理の気に障ったようだった。
「あのおなごが良いのなら、追いかけていってはどうじゃ?」
「ああ、いや、知ってる人なような気がしただけだよ。……女の子なのかなあ」
「元々知り合いじゃったのかの?」
「気のせいじゃなかったら、連理君も知ってる人じゃないかと思うけど……」
「妾も?」
 連理は顔を顰めて、話題のウェイトレスの方を振り返る。
「誰じゃ?」
 話題のウェイトレスは横を向いて、お盆で顔を隠していた。
「あれは、ガッツさんだと思いますけど」
 優真がさらりと正解を言って、連理はさらに顔をしかめた。
 そして、ふう、と憐れみのこもった息を吐く。
「世は無常じゃの」
 ……お盆の影からシクシクとすすり泣く声が聞こえた気がした。
「それで、重ねてになりますけど、行かなくてもいいんですか?」
 優真が予定を確認する。優真自身はまだアルメイスに留まる予定だが、サウルの予定は同じ家にいてもわからない。
「ああ、連行するだけなら僕がいなくてもね。本拠地には別働隊が入って、今頃押さえてる頃かな……明日には戻んなきゃいけないけど、今から乗っても、夜行の急行に乗っても大して変わらないから、夜のに乗ってくよ」
 サウルはねじ巻きの懐中時計を出して、時間を見てからまた懐にしまう。
「それじゃあ……午後は少し、霜雪祭を見て回りましょうか」
「そうだね。後夜祭まではいられるかな」
 連理は二人の会話に、面白くなさそうに鼻を鳴らしたが……何も言わずに、霜雪祭の案内を開く。
「優真! 妾はここを見てみたいのぅ、行かぬか」
 二人で行くわけでないことは、わかっていたからだった。

 元々公の大事にはならぬひっそりとした事件だったが、霜雪祭はそんなこっそりとした事情など知らぬ気に、問題なく運営されていた。生徒たちがいれば、学校行事はどうにかなるということなのだろう。
 ジークとカレンの二人は事件が一段落したなら、もうすっかり後のことは任せたと言う顔で学園に戻ってきていた。カレンはうっかりすれば放蕩の過ぎる主を放っておけないのもある。見つからぬように見張り……じゃなくて、お供もあるから、ジークと純粋なデートというわけでもなかったが。ランカークが一所に留まって何かに惚けてる間やら、取り巻きと一緒にいる間は近くにいても怒られるので、そんな隙には。
「そういえば、エリスとナギリエッタがファンシーショップをやるとか言ってたな。冷やかしに行ってみるか」
「そうね……エリス、どんな顔で売り子してるのかしら」
「そりゃあ……いつもと同じじゃないのかな」
「いつもと同じ?」
 カレンは首を傾げる。ジークもいつもと同じエリスを思い浮かべて、首を傾げた。
 いつもと同じエリスは、ファンシーショップの売り子と言う顔ではないからだ。いや、顔は綺麗だから問題ないとして、問題は表情だ。
 いや、と思い直して、ジークはカレンを見下ろした。
 ここにも営業スマイルと普段に隔たりのある人物がいる。エリスも、あの仏頂面で売り子をやっているとは限るまい。
「とりあえず、行ってみるか」
 二人はそして、黒箱屋に向かう。

「やあ、お二人さん。何かおすすめの品はあるかな?」
「いらっしゃいませぇ〜」
 ほえほえとナギリエッタの出迎えの声がして、店番をしていたエリスも振り返った。
「繁盛してるかい」
 ジークがやっぱりと思いながら問うと、いつもと同じ無表情でエリスは頷いた。
 こんなでも繁盛はしているらしい。お祭で、生徒たちの財布もゆるんでいるのだろう。
 ファンシーショップのお店の中は、可愛い布鞄などを中心に品揃えされている。ジークが挨拶している間に、カレンはその一角を熱心に眺めていた。
「何かいいのはあったか?」
 カレンの興味はクリスタルビーズのアクセサリーだ。カレンがいつもアルバイトで扱っている宝石よりは、もちろん安い。
「……これは良い出来だわ」
 ペンダントを一つ選び出す。
「じゃ、これをもらうよ」
「ありがとうございますぅ」
 清算して、紙袋に入ったものをジークはカレンに渡した。
 そして店を出て、歩き始める。
「いいの?」
「高い物じゃないんだし」
「ありがとう。このペンダントはビーズが良く出来てて、うちの店に並べても良いくらいだわ」
「……転売はしないでくれよ」

 ナギリエッタたちの黒箱屋も盛況のうちに、霜雪祭も終わりに近付く。
 祭の最後は後夜祭。廃材でキャンプファイアーをして、フォークダンスを踊る。
「こうやって一緒に踊っていると……嬉しくて今日の疲れも全部吹っ飛んじゃう気がするね」
 店を畳んだ後に、残った廃材を火に投げ入れてから、ナギリエッタとエリスもダンスを踊る。
「……あのね、プレゼントがあるんだょ」
 手を繋いで踊りながら、ナギリエッタはエリスの耳元に囁いた。
「……なに?」
「あとでね……」

 火が燻るようになるまで踊ってから、陰りの中で。
「エメラルドは幸運や幸福の象徴なんだって」
 エメラルドのついたネックレスを広げて見せて、ナギリエッタは言った。アルバイトの収入をつぎ込んだものだ。
「……無理しなかった?」
「うぅんっ」
 エリスに覗き込まれて、ナギリエッタは頬を染めて首を振った。
「エリスに……感謝のしるしなんだよ。エリス、いつもありがとう」
 けれど、全力で笑って。
「も、もしよかったら……ボクがエリスの首にかけてあげるけど、いいかな?」
 でもまた、頬を染めてエリスを見上げる。
「…………」
 エリスは微笑んで、そっと屈んだ。
 そのエリスの首の後ろに手を回して、ナギリエッタはネックレスを留めようとする。
 ……上手くとまらないのか。
 二人の影は、随分長いこと一つのままだった。

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