■番外7ミニゲーム:フローラルハント■

「ちょっといい?」
 アルメイスの春は遅い。雪の残る通りの道で、バイトに向かう途中のカレンを呼び止めたのはルーだった。
「何? これからお店に行くから……あまり時間は取れないんだけど」
「歩きながらでいいわ」
 そう言って、ルーはカレンの横を歩き始めた。
「お願いがあるの」
「……何?」
「少し人を集めて、町の外を見てきてくれないかしら?」
「……なんで?」
「熊が出るらしいの」
 カレンはルーの真意に悩んで、少し考えこんだ。
 実は町の外の山林だと、熊は普通にいるような気がする。見に行かなくてはいけないものだとは思えなかった。それに熊ごとき、「人を集めて」まで確認しに行くような物だろうか。フューリア一人で、十分熊一匹捌けるだろう。
「普通の熊なの?」
 それでも人を集めなくてはならないのなら、普通の熊ではないのだということだろう。
「……九割九分、普通の熊よ」
 この言い方だと、残り一分が、どうやらはぐれリエラかなにかの可能性なのだろうと思われた。
「熊が出るにはちょっと早いけど」
「九割九分なのを確認すればいいのね?」
「そうね」

「アルメイスに行ってくるよ」
 サウルは手早く荷物をまとめて、従者のカールに告げた。
「……遊びにですか?」
「いやいやいや、仕事だって。はぐれが出るらしいって話だから、確認に。五月の半ばにね、行幸の予定があってね」
「行幸……ですか」
「そう、九割九分タダの熊だって話だけど」
 一応確認しておかないと、とサウルは微笑む。
「貴方が行く必要はないでしょうに……」
 カールは目を細めたが。口実をつけて出かけたいだけなのはわかっていたし、少しガス抜きもさせないと……見当もつかぬ場所に逃亡されるよりはましかと、溜息のように息をつき。
「すぐお帰りくださいね」

「花見ついでに熊狩り?」
 カフェのマスターはカレンが貼っているポスターを見ながら、首を傾げる。
「熊鍋でもするのかい?」
「狩れたら、それでもいいけど。一応主目的は、盛りには少し早いけど……花狩りね。カフェに来る学生が興味持ってたら、私にって言ってくれる?」

●花狩りへの招待
 カレンがこういう催し物の元締めをしていることは多い。それが何故かというならば、大体はカレンの影の主人であるアドリアン・ランカークの命であることが多く、その場合は何らかの形でランカークも動いていることが多い。だが“闇の輝星”ジークの見たところ、今回においてはランカークはこの花狩りに興味を示すどころか知りもしないように思われた。
 ランカークが、今回のことに興味がなさそうだと判じた理由はと言えば。
「カレンさん、俺もぜひ!」
「あら、行くの?」
 “貧乏学生”エンゲルスが、嬉々として参加を申し込みに来ていたということがある。
 ランカークが黒幕ならば、エンゲルスがこうしてカレンのところに申し込みに来るようなことはない。逆に仕切りを引き受けているところだ。カレンも楽ができるので、エンゲルスに進んで押し付ける……という構図になる。
 なのでエンゲルスが個人的に行きたいと言っているなら、やはりランカークは関係がないということなのだろう。
「花狩り……狩ったら、その分だけ食べていいんですよね」
「……いいけど」
 エンゲルスがうっとりと言うと、さすがのカレンも奇妙な顔をした。
「花、食べるの?」
「春の野草は美味ですよ!」
「あ、野草ね」
「なにせ家からの仕送りが途絶えてもう一週間……色々とピンチでして」
「……好きなだけ食べていいけど、熊も出るわよ」
「了解してます! 万が一の場合は、皆さんを頑張って護りますよ!」
 エンゲルスは、どんと自分の栄養不足の薄い胸を叩いた。
「熊の右手は珍味だとかそんなことはこれっぽっちも……!」
「おいしいらしいですよねえ」
 おっとりと口を出したのは“七彩の奏咒”ルカだ。
「へー、美味いのか」
 横で耳をそばだてていた“黒い学生”ガッツは、ふーんと興味なさげに鼻を鳴らした。そしてエンゲルスが行ってしまってから、しかたねえなというような態度で開いてあったカレンの手帳に自分の名前も書きつける。
 とりあえず、そんな様子で、カレンのところには花狩りやら熊鍋やら目的は様々だったが人が集まってきていた。
 さて。話を戻して、ならば出元は何処か。カレンが自分に一銭の得にもならぬイベントを自ら企画するような者ではないことを、ジークはよく知っている。何かをするのであれば、断れないか、断ると主人の害になるかという事情があろうか。
「なんでこんなことになったんだ?」
「ルーがね」
 カレンはカフェの椅子に斜めに座り、一緒に行こうと名乗り出た者の名を書き付けた手帳を開きながら、鍋だの釜だのを書き出していた。道具の調達は、カレンの仕事になるのだろう。
 その手を止めぬままに、カレンは正面に腰を降ろしたジークに答えた。
「ルーに頼まれたのよ。町の外を見てきて欲しいって」
「ルーに?」
「そう」
「そりゃ、気になるな……熊が出るからって?」
「そう、熊が出るからって」
「普通の熊なのか?」
「九割九分」
「九割九分か。しかしそう言うと、何故か残り一分に当たることが多い気がするな……」
「ルーもそう思って人を送ろうと考えたんでしょ。九割九分って言い方もどうかと思うわね」
「カレンは残り一分だと思ってるんだな」
「安全なら自分の手下で調べるわよ。他所者を使おうって思うのは、自分のカードを切りたくない時よ。権力者ってそういうものでしょ」
 カレンはそう言って、手帳を閉じた。ジークは、ルーはそういう性質でもなさそうだと思ったが、今回のことについて言えばカレンの言う通りかもしれぬとも思う。人を募るにしても、自分の懐を痛ませない少しずるいやり方だ。
「晴れるかな」
 ジークはまだ冬の匂いのする、窓の外の重い空を見上げて呟いた。
「やあ、花見の相談?」
 その横にふらりと“暇人”カルロがやってきて、テーブルに手を置いた。
「僕も行こうと思うんだけど、いいかな」
 その手元、テーブルの上に、ひらりと黒猫が飛び上がって座った。カルロのパートナーであるロザリアだ。
「歓迎するわ。人は多い方がいいから」
「熊狩りは作法を知らないんで、見学になりそうだけど」
「作法なんて、私だって知らないわよ。皆力任せの適当よ、気にしなくてもいいと思うけど……」
「そうなのかい?」
 カレンは危険かもしれぬ、いや多分危険であろう狩りを勧めるのもどうかと思ったのか、一度黙り込んだ。カルロが聞き返すとカップに手を伸ばし、喉が渇いたので言葉を切ったとでも言うように一口すすって、それから続けた。
「……まあ、無理に狩りに参加しなくたっていいわ。危なくなったら逃げるのね」
「あらあら、秘密も中途半端ね」
 黒猫が笑うように言った。
「ロザリア?」
 カルロはロザリアの揶揄するような声の意味を問うように、手元の黒猫の顔を覗き込む。美人の黒猫は口元だけで笑っていた。
「聞こえてたんなら、聞いた通りよ」
 カレンは表情も変えずに答える。
「別に隠すつもりはないのよ。変な物がいるかもしれないけど、花は花でしょ。花見に変わりはないわ……首尾よく熊肉が取れたら、食べられるように準備はしていくけど」
「ふうん」
 ロザリアの方が耳がいいのは仕方あるまい、人外の者なのだから。カルロは花狩りの事情を改めて聞いて、考え込んだ。
「レポートの気分転換には、ちょっとハードかな」

「優真!」
 汽車が煙を吐いて滑り込んできて、止まる。それを待ちかねたように“真白の闇姫”連理は先頭の車両のステップに駆け寄った。
 そこから“春の魔女”織原優真が降りてくる……と思いきや、先に降りてきたのはサウルの方で、連理は急ブレーキをかけた。
「何故そなたが先に出てくるのじゃ!」
 退け! と牙を剥く連理にサウルは笑って、横にずれる。
 その後ろから優真がようやく降りてきて、連理は今度こそ遠慮なく抱きついた。
「お元気でしたか、連理さん」
「今、とても元気になったのじゃ」
「今まで元気ではなかったんですか?」
「いや、元気だったぞ! もっと元気になったのじゃ」
 そんなやり取りをしている間に、最後に荷物を持ったシャルティールが降りてくる。
「感動の再会はそれくらいにして、とりあえず宿に行こうか」
 サウルが促すと、連理は優真に抱きついたままキッと邪魔者を振り返った。
「無粋じゃの」
「優真だって長旅だよ、休ませてあげなよ」
「それはそうじゃ。しかし久しぶりに優真にこうして会えるというのに、そも仕事付きというのが無粋なのじゃ。どうせならば休みを寄越せ、休みを」
「休みはあげるよ。希望するんなら、いつでも」
 相変わらず笑って答えるサウルに、優真の方が首を傾げて問う。
「その間、ちゃんとお食事しますか?」
「君がいない頃には、自分でどうにかしていたんだけどな」
 そう言いながら優真とちゃんと目を合わさないところが、現在を物語っている。もっともどうにかしていたという過去も、優真は少し疑っているが。優真が仕事を怠ることはないけれど、サウルは家に帰れなければ一食二食は平気でお茶だけにすることも、もう知っているからだ。
「とにかく行こう。続きは宿でゆっくりするといいよ」
 形勢不利と見たか、サウルは再び促す。それに応じて最初に歩き出したのは、シャルティールだった。サウルの横を通りすがる所で囁く。
「しゃんとしなよ、ヘタレ。優真が休みを取れるくらいに」
「お説ごもっともで」

●熊が多すぎる
 “ぐうたら”ナギリエッタは新聞を閉じた。目的の記事は見つからなくて、考え込むように首を傾げる。
「エリス、あった?」
 調べ物に付き合わせたエリスも、新聞を閉じる。
 カレンには花狩りの参加者の面子を聞いて、事情も聞いて。そこでルーの同行はないことを知った。それがどうにも奇妙だと思って色々と調べてみたら、サウルが来ている。
 やっぱり奇妙だと思って新聞を漁ったけれど、さてそこから先はわからなかった。
「直接聞いた方が早いんじゃないかしら」
「やっぱりそう思ぅ?」
 ただ面倒なだけかもしれなかったが、エリスは表情を崩さぬままに頷いた。
 それで図書館を後にして。
 教室にいたルーを捕まえた。
「…………」
「あのね、はぐれリエラのことなんだけど」
「…………」
 ルーは黙って教室を出て行く。
「あのぅ」
「……ここでする話じゃないと思うの」
 今はもうルーは身分も立場も隠してはいないが、相変わらず教室では無口なので、ルーが学園長であることを知らない者もまだいる。本人に装う気はもうないのだけれど、内気な少女を装っていた時のままだと信じている者もいる……その幻想を打ち砕きたくないというわけではないのだろうが、まあ確かに教室でするのは不穏当な話だっただろうか。
「あ、ごめん〜」
 ナギリエッタは歩くルーの後を小走りに追いかけ、その後ろをエリスはゆったりと追いかけた。それでいて、三者のスピードは変わらなかった。
「はぐれだって、カレンが言ったの?」
 人気がなくなった頃合を見計らって、歩きながらルーから訊ねる。
「……そういえば、言わなかったかも」
 ナギリエッタは問われてふと、カレンの話を思い返した。話を聞いて、はぐれだと思い込んでしまったけれど、実ははぐれだとは言い切らなかった気がする。
「……何が聞きたいの?」
 質問はルーが主導権を握ったようだった。
「どうして正式に捜索隊を出さないのかなぁって思って」
「……それは」
 そしてナギリエッタの問いにそっと答えた。
「はぐれではないかもしれないからよ」
 曖昧な答だ。
 何もない、何事もないとも聞こえるし、あるいは……
「何か起こってるの?」
「熊が出るの」
 それはもう誰もが知っている話だ。ポスターにも書かれている。
「……言いたくないことなら、無理には聞かないけど……」
 そこでルーは奇妙な顔をした。
「……何も隠してるつもりはないんだけど」
「熊が出るの?」
「そう」
「それだけ?」
「今のところはね」
「何か起こってるわけじゃなぃ?」
「起こってるわ、熊が出るのよ」
「…………」
 ナギリエッタも、さすがに黙り込んだ。話が噛みあっていない、と思う。
「……ルー、言葉が足らないわ」
 見かねたようにエリスが諭す。
「嘘もついていないし、隠していることもないわ。困ったわね」
 かつての盟友に咎められて、ルーは顔を顰めた。
「どう説明すればいいの?」
 やっと足を止めて、ナギリエッタを見る。
「えっと。はぐれではないかもしれないのは、わかったょ。何か起こってるかもしれないと思ってたから、それは意外じゃないょ。サウルにも話を聞いたけど……」
「来てるの?」
「来てるょ。知らなかった?」
「……報告はなかったわね」
「行幸があるんだって?」
「口が軽すぎるわね」
「お忍びなの?」
「そうね、多分」
「多分……」
「公式じゃないってだけで、ひた隠しにされてる話じゃないから。それでもペラペラ言うことじゃないわ」
 それはだから偉い人なら誰でも知っているような話で、偉くなくても結構知っている話だということだ。でも、庶民は知らない。
「ここの管理と警備の責任者は私なの。変なことがあれば、私の責任になるの。すごく変なことがあれば、私の仕業になるかもしれないわ」
「仕業って」
「そういうこと。でも大騒ぎしたら、私の仕業にしたい人は逃げちゃうかもしれないでしょう。できれば尻尾を掴みたいのよ。だからまだ正規の捜索隊は出したくないの」
 それに、と嫌そうにルーは続けた。
「そう簡単に尻尾は掴ませてくれないのよ。熊は熊なんだもの」
「熊は熊……?」

「失礼いたす」
 “深藍の冬凪”柊 細雪は双樹会会長室の扉を開けた。
「おや、どうしたんですか?」
 会長席に優雅に座ったマイヤが顔を上げる。
「お訊ねに参り申した。此度の花狩り、なにやら木々に混じりて触れるとかぶれる毒樹が生えているそうでござるが……いずこよりそのような話に行き着いてござろう。火のないところに煙は立たぬ故に」
 わざわざカレンという縁の遠い人材を使った割には出元がすっかりバレていると、マイヤは細雪の冷静な追求に苦笑を漏らした。
「お話は聞いていらしたのですよね」
「通りいっぺんには聞いてござる」
「熊が出るのですよ……まだ冬眠しているはずの時期なのですが」
「故に、普通の熊ではないと?」
「いや、九割九分普通の熊です」
「そこが解り申さぬ。熊が出る程度、気にされる程のことではありますまい」
「……ああ、どこがおかしいのか、ということですね?」
 ふと何か思いついたように、マイヤは僅かに目を見開いた。会長の椅子に座る優雅さは失われていなかったが。
「無論。先程より」
 そこで細雪は話が噛み合っているようでいなかったことに思い至り、一度口を噤んだ。表に出ていないことがあるだろうからマイヤを訪ねて来たのだが、マイヤはそれが知られていないと思っていなかったようだ。
 今、気がついたなら、それは提供されるだろう。
「数です」
 にっこり微笑って、マイヤは告げた。
「数とは?」
「おかしいところですよ」
「……熊の数でござるか」
「そうです」
「どれだけ出るのでござる」
「この時期じゃなくても、この近辺にしては異常じゃないかという数です」
「つまり九割九分とは」
 文字通り、であったのだろうか。
「何も調べないで丸投げしたわけじゃないんですよ」
 マイヤは少し心外だというような声で言う。
 まず話の出所は、町の外の住人であった。アルメイス近隣に大きな村らしい物はないが、住人がいないわけではない。獣を狩って、新鮮な肉や毛皮を学園都市アルメイスに売って生計を立てている狩人もいる。少し離れると農場もある。
 そういうところから、熊大量出現の報はもたらされた。
「僕が一度調べには行ったんです」
「そういうことこそ、拙者に委ねていただきたいのでござるが」
「何が出るかわからないじゃないですか」
「何が出るかわからないからでござる」
 ここが噛み合わないのは今更として。
「熊はいました。でも僕が出会った熊は皆、普通の熊でした」
「九割九分でござるか」
「そうですね。全部見たわけではないので。僕には危険な物は見出せなかったけれど、熊の数がおかしいことに違いはない。たまたま速く目醒めた熊が多かった、と、判断を下すのは早いでしょう。一人では探しきれないか……あるいは僕には見出せないか、そういうこともあるかもしれない」
 他の者の目と頭で、それを再度確認しなくては。そのためには数が要る。
 そして、現在に至るというわけだった。
 細雪は居住まいを正して、問うた。
「参られまするか」
「危険があるといけませんので、混ざって行くつもりではありましたが」
「然らば、どうか御下命を」
「今話した通りです。行くならば、貴女の目で見てください。僕の目には見出せなかった物が見つかったなら、教えてください」
「承知いたした」
 無茶はいけませんよ、とマイヤは優雅に締めくくった。

●花咲く春の丘
 ここに一人の修行者がいる。
 名は“蒼空の黔鎧”ソウマ、と言う。
 長時間に及ぶ戦闘の疲労に耐えるべく、そしてその中で好機を掴む修行を積んでいるのだ。
 がぁああああ! と濁った大熊の雄叫びが春めいた丘に轟き渡る。
 どがん! と生身の拳が大熊の鼻面に叩き込まれる。
 拳は文字通り熊の顔にめり込んで、一瞬の静寂の後に大熊は後ろに向け、どぅ……っと倒れた。
「よし!」
 ソウマは倒れた熊を見下ろすと、正義に溢れて頷く。
 ソウマは常に正義に溢れているが、この場合熊が悪者というわけではない。
 また、もちろん普通の熊を倒したところでフューリアの修行の足しにはあまりならない。
 なのでこれはソウマの修行の間の、食料になるのである。
 無益な殺生をしているわけではないのだ。
 逆に熊の肉にはクセがあるとかどうとかいうことも、問題ではない。サバイバルの間に問題とするべきは食えるか食えないかなのである。
「これでまたしばらく食い物には困らないな」
 ソウマは熊をずるずる引っ張って、修行の間拠点と定めている樹の根元まで戻った。そこで皮を剥ぎ、とりあえず肉を捌き、炙って食べる。
「この辺は熊がずいぶんと多いな! 食料に困らなくていいが!」
 熊皮を敷いた上に座り、焚き火で焼いた熊肉を食う。
 これにも、もう慣れた。
 だがふと思うこともある。
「しかし今年は春が早いな!」
 丘には、もう花が咲いている。
 通常春の遅いこの土地にしては春がかなり早く訪れていることを、ソウマも気がついていた。
「そう暖かいという気もしないんだが」
 寒さという敵と戦うことも、修行の一環である。それは為されていると、ソウマは思う。
 しかし花は咲き、熊は現れていた。それは春めいているということのように思われる。
 ソウマ自身もどこかむずむずしていた。
 春が来た時の、特有のむずむず感だと思う。
 それ以上のことは、わからなかった。
 ……とりあえず、順調に熊の数は減っていたようだ。ソウマの胃の中に。

「熊は熊じゃということらしいがの」
 連理は優真と手を繋ぎ、低木にも花を飾った緑萌ゆる丘を歩いていた。
 熊鍋……ではなく、花狩りの一行とは別に優真たちは花咲く丘を訪れていた。日取りとしては同じである。だが、時間的には彼らの方が早かった。少人数で身動きが取り易いというのはあっただろう。帝都から来たサウルと、優真とシャルティールの三名。そしてそれに連理が加わった、計四名であるので。
 ただしアルメイスに来たのはサウルの仕事のためなので、スケジュールは基本的にサウルが決めている。優真が同行を望まないならばサウル一人で行ってもいいのだろうが、優真が望まないはずもなく。優真がサウルについて行くのならば、シャルティールはもちろん連理だってそれに同行しないはずはない。
 そしてサウルはこちらに来て、カレンが人を集めているのを知ると、町の外、熊の多く出るという丘に出る日程はわざわざそれにぶつけたのだった。……その前にも出歩いてはいたが、それは気がついたらという風情で、優真もすべてについていくことはできなかった。
「熊は熊、か。ルーがそう言ってたのかい?」
 連理はちらりと一歩後ろを歩くサウルに視線を遣って、やや口を尖らせるように答える。連理もナギリエッタと同様に、ルーに話を聞きに行ったのだ。
「そうじゃ。はぐれリエラかもしれぬと、おぬしは言うておったが」
「はぐれかもしれないって報告をしてきたのはルーだよ」
 相変わらずの笑みのままサウルは答え、連理は「む?」と何かに引っかかったように顔を顰めた。だがルーの説明の言葉が最初足らなかったことを考えれば、サウルがそう理解したとしても仕方がないとも、すぐに思いなおす。
 けれどサウルは連理がそれを口にする前に否定した。
「ルーは欲張りすぎなんだよ。大騒ぎしておけば、とりあえず自分に疑いはかからないのにね」
 熊の影に隠れた、いるかいないかもわからぬ怪人の正体を暴こうなどと思うから……と。
「知っておったのじゃな」
 とうとう足を止めて、連理はサウルを振り返った。
「知ってたわけじゃないよ」
 でも予想はできたと言う。ただの自然現象でないならば、それははぐれリエラという偶然よりも、誰かの罠という故意である可能性の方が高かろうと。
「熊が出る、九割九分違うだろうと思うがはぐれリエラかもしれない……って、それだけじゃ変な報告じゃないか。本当ならどうして……がわからずとも、具体的にどういうとか、もう少し報告しようがあるだろう。でもルーはそうしなかった。報告を怠れば、後から誰かが責任を追及する。だけど大騒ぎにしたら色々予定は台無しになって、その責任もきっと誰かが追求する。両方から逃れようとして、あんな報告になったんだろう」
「責任かの……ルーも言っておったな」
 やれやれと連理は目を伏せて首を振る。
 大したことのないような話を黙っていても責任を追及され、解決できなくても責任を追及されるのだろうと思うと、責任のある立場というのが気の毒に思えて。
 目の前の男も似たような立場のはずなのに、のほほんと見えるのが腹立たしいとも思えて。
「本当は黙っていたかったんだろうけど」
 くすりとサウルは珍しく鼻を鳴らして笑った。サウルは笑うと言っても、普段はただ表情だけだ。微笑むだけ。サウルが本当に笑った一瞬に気がついて、連理は顔を上げた。
「この国にただ一人の人を囮にするようなことをしたら、僕が一番先に敵になるからね」
 それで結局熊鍋か、と、クスクス笑う。
 その笑いが更に気に入らないと思い、連理は僅かに眉根を寄せた。
「どうあれ真実を突き止められれば、万事解決じゃ」
 派手にやろうが地味にやろうが、真理を捉えられれば同じだ。
「とりあえず確認だけで良いと言うていた」
 本当にはぐれリエラであれば退治してもいいが、そうでない何かと出会ったなら無理することはない……そういうことであった。判断力のある工作員なら、敵意のないフューリアの集団に相手から喧嘩を吹っかけることもなかろうと。
「これはルーを陥れる罠なのじゃな」
「そうだね、九割九分」
「残り一分はなんじゃ?」
「本当に、はぐれリエラかもしれない」
 そう言って、サウルは連理を覗きこんだ。反応を見られているのだと思うと、連理は余計仏頂面になる。
「どちらであれ、大事にしてしまえばいいと思うのに。行幸はなくなるけど、ルーはそれほど危険な橋は渡らなくて済む。予定をおじゃんにする責任くらい、大したことじゃないと思うんだが」
 そんなに父上に……と言いかけたところで。
「サウルさん」
 サウルを優真が呼んだ。
「あまり笑っては可哀想だと思いますよ」
 歩みを止めた連理の手からしばし離れて、優真は低木の枝を飾る白い花を手折り、それを持ってサウルの前に戻ってきた。
「どうぞ……綺麗なお花がありましたので、一枝いただきました」
「もうこんなのが咲いてるんだ、早いな」
「そうですね、例年だと盛りはもう少し先だと思いますけど……」
 そこまで言って、優真は手折った枝の辺りを振り返って見る。
 満開と言っていい程に、花はたわわに枝を彩っていた。
「胸のポケットに挿しておけばどうでしょう」
 もう一度サウルの方を向き直り、優真は白い花弁の首を垂らす枝を黒い上着の胸ポケットに挿した。手は空けておかねばなるまいと。
「さて……枯れないといいけど」
「帰るまではもつと思いますけど……駄目でしょうか」
 萎れるまで足の速い花だろうかと首を傾げる優真に、サウルはいやいやと首を振った。
「どうやらこの丘にだけ、早すぎる春が来ているようだからね――」
 残り一分もないとは言えない……と呟いて。

●ミッションT――ベア・ハンティング
「花が綺麗ですねえ!」
「なんでおまえそんな大声なの?」
 がっつりナップザックを背負って、声を張り上げて花咲き緑茂る丘――ところにより山――を行くエンゲルスを、ガッツは白い目で見た。
 これで天使の声というならば聞くにも耐えるが、エンゲルスは普通の男声である。
「そっ、それは……! 普通の熊ならば、賑やかにしていれば近寄ってこないからです!」
 そうガッツの問いに答える声も、大声。
 ガッツは嫌そうに耳を塞いで、考えた。
 熊鍋の時間までは散歩をして十分に腹を空かしておこうと思ったけれども、この貧乏男と同じ方向に来たのは間違いであったか、と。
 大声で話していれば熊が来ないというのは、ありがたいことなのだが……その代償が、エンゲルスの大声の独り言というのは少々いただけない。
 ちなみにエンゲルスが独り言を言っているのは、ガッツがあまり答えないからである。答えのない言葉は、人が隣にいても独り言になってしまうのだ。なのでエンゲルスを『大声で独り言を言う奇妙な人』にしてしまった責任は、ガッツにもある……が、そんなことはガッツは考えていない。
「本当は動物も獲りたいんですけどねえ……!」
「…………」
「罠って高価いんですよ!」
 こんな具合である。
「熊と犬とは違いますからね……! リアルファイトは、食材があまり見つからなかった時の最終手段にしておきたいところです……!」
 しみじみと昔を思いながらも大声で、エンゲルスは言った。
 しみじみと大声って両立するんだな、と思いながら、ガッツは耳を塞ぐ手に力を入れる。完全防音とはいっていないようだ。
 エンゲルスだってフューリアなんだから熊ぐらいひとひねりだろうとガッツは思うが、熊狩りは他の者に任せることにして、ちゃっかり鍋だけいただこうというガッツには、ちょっとそれも言いにくい。
 ともあれエンゲルスの目的は、熊ではなくもっと安全に春の野草だ。
 きのこもいい。ただ、鮮やか過ぎる色合いのきのこは避けなくては。
 そうして思いがけず豊かな花々を愛でながら、食べられる野草を探していた。
 この変人と道を別れて、どっか別の方向に行くべきか……とガッツが思いかけたその時。
 少し離れた場所で草叢が揺れた音がした。
 その音に耳を塞いでいなかったエンゲルスは気がついて、顔を向けたが……耳を塞いでいたガッツが気がついたのは、だいぶ音が間近になってからだった。
「あっ、あれは……!」
 音が近付くのは速かった。
 エンゲルスが声を上げ、そしてようやく草叢を掻き分ける音が聞こえて、ガッツがそちらに顔を向けた時には。
「ぎゃーっ!」
 首から血を吹いた血塗れの熊と――片手にのこぎり片手に大ばさみを持ち瞳を輝かせた血塗れのルカが、目前にいた。

 時は少し遡って。
 カレンたちの一行も陽が高くなる前には丘に着いていた。
 この丘の周辺から以西が、熊の目撃談の多い場所なのである。
 アルメイスを挟んで逆側には、そういった話はあまり多くない。多くないどころか、花もまだまだという風情のようだった。
 美しい花々に感嘆の声があがる。
 そしてここでサウルたちとも合流した。サウルたちがこの丘で待っていたので。
「……僕が前に来た時には、こんなではなかったんですが」
 花咲く丘に立って、マイヤは遠くまで見渡す。
「熊はいたけれども、花は咲いておらなんだということでござるな」
 細雪がその隣に立って確認し、マイヤは頷いて見せた。
「そうです」
 マイヤはしばし考え込む。
「これは無関係ではないのでしょうか。熊が目覚めるには僅かの時間で済んだものが、花が咲くには少し多く時間がかかった――」
 熊が目覚めたことと、花が咲いたこと。二つの向かう方向性は同じようにも思える。
「だとすれば、故無きことを立証する必要は無くなったのかもしれませぬ。この異常、何処かに元凶はござろう」
「楽観するにはまだ早いですね。元凶を見つけられねば、無害な自然の異常ではないと言い切るにはまだ弱い」
「言い切らねばならぬのでござるか」
「……そうです」
「では参る」
 マイヤが目を伏せたその時には、細雪は丘を駆け下りていた。

「サウルが出張るほどの事件とは思えなかったが、これは俺の読みが甘かったかな」
 優真とサウルが二人で座っていたところにジークとカレンがやってきて腰を降ろすと、そう言った。ジークはサウルから話を聞いたわけではなかったが。
「いきなりだね」
「そりゃ、サウルほどの者が交信を2レベルに上げているんだから」
「流石だなあ」
 ジークが指摘するとサウルは笑った。
 だがサウルが交信レベルを上げて、その力を使い始めれば、近付けば同じように交信を上げているフューリアには察することができる。何故なら、サウルのリエラの能力は他のリエラの能力の発動を阻害するからだ。
「おっかないなあ。ロザリアが近付きたがらないんだけど?」
 ぶらりとやってきたカルロも話に加わる。
 近付きたがらないと言われたロザリアも後ろに付いてきて、「ちょっと、誤解されるようなことは言わないで」と主張していた。
「だって、そう言ってたじゃないか」
「違うわよ、いざという時に全力が出せないからちょっといやって言ってただけよ」
「違わないんじゃ……」
 とカルロは思ったが、ロザリアの矜持には大きく違うものらしく、黒猫はプリプリしている。
「とにかくね、サンドイッチはどうかな」
「ありがとう、いただくよ」
「お返しに、フリッターはいかがでしょう」
 サウルとジーク、そしてカレンがサンドイッチをつまみ、優真がバスケットを差し出した。
「あ、美味しそう、貰ってくよ」
 カルロはそれをつまんで、辺りを見回す。
「思ったよりずいぶん綺麗に咲いててくれて、ありがたいくらいなんだけどな。自然に反する力が働いているのかい?」
「自然には反してるのかもね。でも害があるかどうかは、ちょっと判断が出来ないな」
「あまり近くにいたくはないから、すぐに退散するが。ここにいるのは、はぐれじゃないのか?」
 ジークが問う。
「はぐれかもしれないが、違うかもしれない」
 さて……とサウルは首をかしげる。
「裏があるか」
 ジークよりも先にカレンが立ち上がり、ジークはそれを追うように立った。
 サウルはそれを見上げて。
「多分一日くらい曝されても、大した影響にはならないような気がするが……まずいと思ったら、僕の近くに来るといい。とりあえず無効化はできるようだから」
「この辺りは、中和されているってことか。影響の範囲は広いんだな……手強そうだ」
 ジークはにやりと笑い、丘を見回す。
「一休みして、昼を食べてもまだ見つからないようならば、もう少し僕もうろつくことにするよ」
「今、シャル君に空から確認してもらっているんですが……」
 優真がふんわりと微笑んだ。

 ルカはそうっと熊の背後に近付いていた。
 手にはのこぎりと大きな鋏。
 熊の右手という珍味を得るために、準備は万端であった。
 そして気付かれぬままに、熊の首筋に切りつければ。
 血が噴出して、ルカの服を染める。
 だが大きな熊はしぶとかった。
 血を吹きながらも即座に倒れることはなく、反撃の腕をあげる。
 だがその攻撃をひらりと避けて、ルカは熊と対峙した。退かぬ気迫に押し負けたかのように熊は後ろを見せるが、ルカは引き離されることなくそれを追う。
 そして……
 追いかけた。
 熊が力尽き、倒れる所まで。
「あ、ガッツさん、エンゲルスさん」
 熊が倒れたところで二人が呆然としていたのに気がついて、少し申し訳なく思ったが。
「すみません、倒すのに時間がかかってしまってぇ」
「いや……」
 エンゲルスは口篭り、ガッツは沈黙した。
「良いけど……その格好は皆見たら驚きそうですよ……」
 エンゲルスが控えめに血塗れの姿を指摘してきて、ルカは自分の格好を見下ろした。
 だがこんなこともあろうかと思っていたのだ。
 熊をずるりと担ぎ上げながら、ルカは笑み返した。
「大丈夫です、着替えは持ってきてありますからー」
 そして、ルカは帰っていく。
 丘で花見に興じている面々が陥るであろう恐慌を思って、エンゲルスは息を飲んだ。
「すまねえ。大声くらいは我慢するぜ」
 ガッツは眉根を寄せて言った。
 こんな恐ろしい光景に、そうそうめぐり合うぐらいならと。

●西から来た春
「熊、もっといるんじゃなかったのかしら」
 カレンとジークは早足で木々の茂る中を行く。森と言うほどには密ではなく、山と言うほどには険しくない。だが斜面だ。
 この丘は木々の拓けた低い所に広がる平原を臨む部分と、木々に覆われた所とが混在している。今日は特に花もよく見える拓けたところに拠点を置いて、木々の茂る中に個々に入り込むような形を取っていた……熊がいる、という話でもあったので。
 だが、うろついたジークとカレンの二人は熊には出会わなかった。
 ジークがカレンに答えて首を傾げる。
「どこかに行ってしまったのかな……」

「熊も少なくなったな!」
 ソウマは炙った熊肉を齧りながら、独り言を言った。
「そろそろ修行も大詰めか!」
 そして立ちあがった。

「あの、右手と胃袋はいただいて帰っていいですか? 下ごしらえには時間がかかりますし」
「いいよ」
 とルカに思わず答えてしまってから、カルロは辺りを見回した。
 ここで許可を出すのは自分ではないことに、遅ればせながら気がついたからだ。
 だが多分許可出すべきカレンは、もう近くにいなかった。探索に行ってしまっている。
 近くにいるのは優真と連理とサウル、ナギリエッタとエリスにロザリア。
 全員と少しずつ視線を合わせて、カルロは言いなおした。
「いいんじゃないかな、食べ切れないだろうし」
 その時、ばさりと上空から音がした。
 鳥の影が落ちたと思ったら、見る見る大きくなって舞い降りる。
 優真の連れのシャルティールだった。
 上空からリエラの痕跡があるかなど、様子を見てきたのだ。だいぶ長いこと飛んでいて、やっと降りてきたのだが。
「……皆して何やってるのさ」
 降りてきて開口一番、そう問うた。
 何をしているかと言えば、寄って集ってルカの狩ってきた熊を捌いているところである。
 見ればわかることを問うのは、呆れているからだろう。
「熊をさばいてるんだよ。意外に難しいんだ」
 カルロが律儀に答えると、ルカは大ばさみを持って笑顔を上げる。
「はさみで切ると便利ですよ」
 ルカが木々の間から姿を見せた時は、衝撃的だったが……
 …………
 人は慣れるものだ。
 ……ちなみに、まだ着替えていない。
 さばくにも汚れるから、その後でと言って……皆、見ないようにしているとかはさておいて。
 他の者は上着を脱いで腕まくりして、気を付けている。
「これから食べる分も、しばらくお酒に浸けておいた方がおいしいですよ。ルカ、強いお酒持ってきたんです」
「……ゆっくり仕込むといいよ。ああ、優真」
 まるでホラーかサスペンスドラマのようなルカの姿から目を逸らして、シャルティールは上空から見えたものの報告をした。
「時間が経っててわかりにくかったけど、だいぶ西にリエラの戦闘の痕跡があるよ。二ヶ所まで確認したけど、もっと西にもあるかもしれないね。普段人のいないところだから、今まで見つからなかったのかもね」
「複数ですか?」
 シャルティールの話に優真が首を傾げると。
「そう。でも、同じ連中の戦闘だと思うよ」
 そこでシャルティールは言葉を切って、丘の、木々の茂る辺りに視線を遣った。
 サウルはナイフを持つ手を止めぬまま、シャルティールの続けるであろう言葉を続けた。
「片方が片方に、ここまで追い込まれてきたんじゃないかな」
 暴走してるし、やっぱり片方ははぐれだなあ、と呟いて。
「片方は?」
 ナギリエッタが聞く。
「さてね」
「もう近くにはいないと思ぅ?」
「目的を果たしたんなら、ここにい続けようとは思わないんじゃないかな。両方野生ならともかく」
「ルーは捕まえたかったみたいだけど」
「春を招いている物が、はぐれじゃなくて人為的な物が原因ならと思っていたんだろうけど」
「……はぐれリエラをこっそり追い込んで来た奴がいるんだね」
 ぐるりと話は回って、結局はぐれリエラなのかとナギリエッタは息を吐いた。
「熊が出たのは予定外だったのかも……あっ」
「どうしましたか?」
 サウルが声をあげたので、驚いて優真が覗きこむと。
「汚した」
 肉片とシャツを抓んで、サウルはしまったという顔をしていた。
「だらしがないな」
 シャルティールは冷ややかにそれを見下ろして、また木々の密生している方に顔を向けた。
「とりあえずね。今のここの状況を考えれば、その辺に隠れていると思うのが妥当じゃないかな」
 シャルティールは、何がとは言わなかったが。
 はぐれリエラとは主のいない自存型リエラが世に顕現していることだ。正気を失っている場合も暴走している場合もあるが、まともな場合もある。ただ主がいないと力も行動もコントロールできないので、いずれにせよ危険な存在として狩られることになる。
 シャルティールやロザリアにしてみれば、優真やカルロを失った後の我が身でもある。
 彼らはもとより無口だが、利用されて狩られる未来に感想を述べるのは、なお難しかろうか。
「隠れている場所を特定はできぬかの」
 連理の問いに、シャルティールは黙って肩を竦める。
「ならば、戦闘の痕跡があったところまで案内せい」
「遠いよ」
「仕方がなかろう、どうにか見つけねばならぬ。災厄の種となるならば、の」
 よいせと連理は立ち上がり、丘を西に向かって降り始めた。

「こいつは食えるな……」
 ガッツもエンゲルスと並んで、あれは食べられるのこれは食べられないのと鍋の付け合せに山菜採りを始めてからしばし。
「んん? 何やってんだ」
「いや、これが取れなくて……!」
 エンゲルスが座り込んだまま動かなくなったので、ガッツは上からその手元を覗きこんだ。
「食えるのか、そんな花」
 エンゲルスが摘もうとしているのは、黄色い花の蕾をつけた少し背の低い茎のどっしりした草だ。
「これは春先の食べられる花ですよ!」
 本当かぁ? と半信半疑の顔でガッツは更にまじまじと覗きこむ。
「むう……!」
「ん?」
 エンゲルスが顔を赤くしてまで踏ん張って取ろうとしている花が、なんだかざわりと動いたような気がしてガッツは少し身を退いた。

●ミッションU――フラワー・ハンティング
「来や、闇主」
 闇の豹が春の中に現れる。
 リエラ同士と思われる戦いの傷跡は、時間は経っているが大きなものだった。仲間達のいる丘は、木々に遮られて見えない。平地に点在する森の中にぽっかりと穿たれた穴は、周囲の木々を薙ぎ飛ばしていた。
「これだけ派手にして、よくも今まで気がつかなかったものじゃ」
「いや、リエラの戦闘にしては、これはものすごく小規模だね」
 翼をたたんだシャルティールが樹にもたれて、穿たれた穴を見つめてそう言った。
「そうなのかの?」
「連理は結界のない場所でのリエラ同士の戦いを、あまり知らないから……ね」
「そういえば、そうじゃな……」
 アルメイスの学生は闘技場で模擬戦を行うが、闘技場には厳重に結界が張ってあり、リエラ戦闘の被害が漏れ出さぬようにしてある。それでもたまにリエラの暴走によって闘技場が半壊するような事故もあることを思えば……確かに、と連理は改めて穿たれた穴に視線を遣る。
 シャルティールは続けた。
「それでも、近くの住人で、森に入る者なら気がついていたんじゃないかな」
「ほう?」
「気がついても、いつのかわからないなら報告するようなことはないんだろうね。この近くでリエラを扱うのは誰かと思えば、アルメイスの学生が真っ先に浮かぶだろう。密告と思われて、逆恨みとか……」
 シャルティールはそこで切った。最後まで言うこともないと、そう思ったのか。
「……恐れられておるのう。宿命か」
 連理は僅かに俯き目を伏せ、そしてすぐ顔を上げて前を見た。
 今は関係のないことと。
「さあ闇主、ここに居た春を呼ぶものが次に人目に現れる場所はどこか、教えておくれ」
 他の者にはわからぬものが、闇主と連理の間に通う。
 そして。
「……む」
「どこだったんだい」
「しまった、ようわからぬ」
「なんだい、それ」
「丘のどこかじゃな」
「……まあ、そうなんだろうね」
 もとより、それはわかっていたことだった。
「でも、重要なことがわかったんじゃないのかい」
「何がじゃ?」
「どんな形だったの? 熊?」
「わからぬ」
「なんだい、それ」
「熊はおらなんだ。はっきりそれらしいものは、特定できなんだ」
「丘の中にあって、特殊な形はしていないってことだ」
「そうじゃ。じゃが、まあ、手掛かりはある」
 連理は重々しく頷いた。
「なに?」
「貧乏男と超甘党……エンゲルスとガッツが、そこにおった」
「……急いで戻った方がよくないかい? あの二人、ずっと丘の辺りうろついてるだろう」
「間に合うと良いがのう、多分間に合わんな」
 冷静に、連理はそう言った。
 シャルティールは自分も他人に甘い方ではないと思うが、連理も結構そうだな、と思いつつ。
「間に合わないかい」
 義務的にそう訊ねた。話の流れとして、訊かなくてはならない気がしたからだ。
「うむ。見えたエンゲルスは、頭に花を咲かせておったからのう」
「……頭に、花?」

「……おまえとはこれっきりにさせてもらうぜ」
 ガッツは片手を挙げて、無情に立ち去ろうとしていた。
 女を捨てる、ハードボイルドな男の如く。
「ちょ! 待って!」
「俺は、鍋の付け合せに卵を取りに行く。……止めてくれるな」
「見捨てないでくださいよ!」
「俺は頭の上に花を咲かせるような奴とは知り合いじゃねぇ」
「なんで花なんか咲いてるんですかー!」
「俺に訊くなよ!」
 ――エンゲルスの頭の上には、可愛い赤い花がそよいでいた。

 止めたからと言って残ってくれるほど、ガッツはお人好しではない。
 当然の如くすっぱりと見捨てられて、エンゲルスは頭に花を咲かせたまま取り残された。
 だが別れがあれば、出会いもある。
「貴様! 何者だ!」
 ソウマとの出会いは、あんまり救いとは言いがたいかもしれなかったが。
「何者って……エンゲルス、です……」
「頭に花が咲いているが、やっぱりそうなのか! 偽者じゃないんだな!」
 よよよとエンゲルスは泣き崩れた。

 ぎゃあぎゃあと叫んでいれば、何事かと人は思う。
「何が起こってござるか」
 騒ぎを聞き付けて駆けつけた細雪が、眉根を寄せてそう問い。
「…………」
「……何をしたんだ?」
 同じく駆けつけたカレンは呆れた顔で赤い花を眺め、ジークは複雑な表情で事情を聞く。
 何か起こっているということはわかるが、どう手を出して良いかわからない……そういうところだった。ソウマ、カレン、ジーク、細雪が囲むようにエンゲルスを中心にして立っていた。
「頭に花が咲いてるぞ」
「取れないんですよ〜!」
「よし! 俺が取ってやる!」
「え、ちょ、待って……! わー!」
 ソウマの辞書に、手加減という文字は、多分なかった。

「ううう、巻き込まれますって、ひどい……」
「取れないな!」
 すぐ解決には至らないと判断して、細雪は踵を返した。
「拙者はマイヤ殿に知らせて参る」
「わかった、俺たちはここにいるが……こんなことになるとは思わなかったな」
 ジークはエンゲルスを見下ろして、息を吐いた。
「もう一度聞くが、何をしたんだ?」
「あの花を摘もうとしたら、いつの間にか頭に生えて……」
「その花か?」
「こいつか!」
 エンゲルスの足元に、ちんまりと密やかに、まだその花は咲いていた。

「やはり、間に合わなんだか」
 細雪がマイヤに報告に戻った時、連理とシャルティールも丘に残った者たちのところに戻ってきていた。
 それで、見に行かぬという者は居なかった――エンゲルスには実に不幸なことだったが。
 頭に花を咲かせたエンゲルスを取り囲む輪は広がり、そしてここまで来て、不自然な春を呼んだ物の正体がわからぬということもなかった。
 ――その花は、密やかに咲いていた。
 見た目から自存型リエラだと判断することは難しかろう。
 だがリエラの形に限りはない。
 この花もリエラなのだ。
 そして、自らの力のみで在り続けることを可能としたリエラだ。
 だが意思の疎通の叶わぬほどには、人からは離れてしまっている……
「この頭の花は多分、エンゲルス君を依代の代わりにしているのでしょう」
「つまり主ではないが、主の代わりにと言うことでござるか」
 マイヤが思案の果てに、そんな予想を口にした。細雪の噛み砕いた言葉に頷き。
「自存型もエネルギーを必要とする。戦うならば、十分に供給されなくてはなりません」
 探されている事を悟り、戦いの予兆を感じ取ったのかもしれないと。
「戦る気があるってことだな! 始末する! 第三段階まで上げるぜ!」
 被害が街に向かわぬように方向を定めてソウマが位置を探るのを、シャルティールが止めた。
「いいけど、これ、動かないわけじゃないからね。攻撃したら逃げるよ」
 西からずっと追い立てられて逃げてきたのだろうと、シャルティールは言う。
 垂れ流しのように春の到来を錯覚させるような能力を放出し続けていたのも、ずっと臨戦態勢だったからだ。そして西のどこから始まったのかはわからぬが、敏感に熊たちは目覚めた。しかし花が去ってしまえば、本物の春ではないから……餌を追うように春を追って来たのだろう。あるいはこの花にはもう少し強く、春を求めるものを呼び寄せる力があるのかもしれぬ。そのくらいでなければ、ルーを、その父を、嵌める罠にはなりえまい。
「じゃあ、僕が逆側で壁になろうか。少しなら逃走を邪魔できるだろうし、余波が後ろに行くのも多分防げる」
 サウルがソウマとは逆側に立つ。
「サウルさん、大丈夫ですか――シャル君」
 優真が心配そうにサウルを見、そしてシャルティールを見る。
「……わかったよ。多分こいつ僕より強いからね、長持ちはしない。一瞬だけだと思ってて――呪縛するよ」
「では、一斉に参ろう」
「俺も力を貸そう」
 細雪とジークも交信を上げる。
 穏やかに還してやるには暦が合わぬし、そしてそれを望まぬならば――リエラにとっては乱暴も穏やかも同じこと。やむを得ぬ、と。
 シャルティールが呪縛し、サウルが逃走路を塞ぎ、居合わせた者が一気に攻撃の手を下したなら。
 次の瞬間には花は散って、その姿はもうなかった。

「エライ目に遭いました……」
 熊鍋をつつきながら、エンゲルスは溜息をついた。
 頭の花は枯れている。
 仕事の後に、皆で熊鍋をつついて……ともあれ、今回のことはこれで終息ということになるだろうか。
「ソウマ君は、ずっとこの辺にいたんだって?」
「ずっとここで修行してたな!」
「そうなんだ。その気がないと言うか、素質がない者にはきっと影響が薄かったんだな」
 サウルが鍋をかきこむソウマに問い、納得していた。
「なんだそれは! 俺は何か素質がないのか!」
「……ごめん、影響がないのは良いことだから、さ」
 何かは語らずに、サウルは誤魔化した。察したサウルが敏感だったのかもしれないが、とっとと無効化を張って引き篭もったからには、感じ取ったものがあったのだろう。
「そういえば、蜂蜜男はどうしたのじゃ? 先見の際にはエンゲルスと一緒におったと思うのじゃが」
 鍋が綺麗に底を突いたあたりで、ふと連理が気がついてそう訊ねた時。
「ガッツさんは……」
「おう!」
 丘を登ってくるガッツの姿が見えた。
「手間取っちまったが、卵取れたぜ。労働の後の飯は格別だよな!」
 誰もが、もう食べ終わったとは言えなくて、ただガッツの顔を見る。
「なんだ、どうした? さ、熊鍋食おうぜ……あれ?」
 だが、底の見える鍋を隠している者はいなくて。
「え、俺の分は……?」
 その問いに、カルロは気の毒そうに頭を振って答えた。
「な……っ!」
 ないのか! と言おうとしたのか、なんだと! と言おうとしたのか。
 ――ガッツは絶食の限界を超えてひっくり返り、声なき悲鳴は花より儚く偽りの春に消えたようだった。

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